来週(6/30)、横浜事件の国家賠償請求事件の判決があるので、毎日のように取材を受けています。まるで口述試験のような気分なので、当日の記者会見に向けて、もう一度、記録その他で横浜事件の歴史をおさらしようと思いました。
その過程で改めて目に留まったのは、2010年2月4日の刑事補償決定(大島隆明裁判長)の最後の部分で、当時の弁護人の責任に触れた部分です。タイトルは「被告人ら側の落ち度の有無」です。
「弁護人のアドバイスによるにせよ,被告人4名は公訴事実を強くは争わず,結局は即日結審・判決という簡易な手続で終了させる途を選び,上訴もしなかったのであって,とりわけ,被告人らの利益を代弁すべき弁護人が,執行猶予になることを前提に,即日結審・判決という手続を容認したことを,被告人側の落ち度として考慮すべきかどうかという問題がある。この点,弁護人である海野(普吉)弁護士は,徹底的に争う意思を示した細川(嘉六)のため,記録の謄写を始めたばかりで,予審終結決定も十分検討できず,証拠も見ていない段階にあったから,今日であれば,記録も見ずに被告人に有罪を押し付けるがごとき弁護活動は決して許されないということになろう。」
このように、問題提起がされています。つまりは、ここでいう他の被告人らにおいても記録を精査し、無実であるならば徹底的に争うべきだったのではないか、ということです。そう問われてしかるべきと思います。これに対し、刑事補償決定では以下のように述べます。
「しかしながら,当時,横浜事件の極めて多数の被告人の弁護を海野弁護士が一手に引き受けており,同弁護士は他にも引き受け手の乏しい思想関係事件の弁護活動を広く行っていたことが認められ,そのような困難な状況下で,十分に記録を検討することなく,被告人の早期釈放を目指すという弁護方針の下で,即日結審・判決という裁判所の方針に応じたことには必ずしも帰責事由があるとはいえない。本件当時,拘置所の衛生環境,食事等は極めて劣悪であり,海野弁護士は接見に行った際に何度も棺桶が運び出されるのを目にしたこともあるというのであって〔本件再審請求審甲7の1〕,また,横浜事件の被告人の中には,裁判を待たずに獄死した者も出ていたので,同弁護士が,被告人の早期の釈放を最も重要な目標として,裁判所に対して妥協的な弁護活動をしたとしても何ら責められるべきではないと考えられる。依頼者である被告人の生死がかかっているという現代からは想像のできないような厳しい状況下での弁護方針の選択であるから,真実のために断固として争うべきであったなどとその方針を安易に非難することはできない。また,当時は上訴もかなり制限的であって,いったん即日結審・判決に応じておきながら,その判決に瑕疵があるとして上告審でこれを覆すことは困難であるから,そのまま判決を確定させたことを被告人側の落ち度と見ることもできない。したがって,被告人側の対応に問題があったがために有罪判決が確定したと見ることもできない。」
確かに、この通りだと思います。海野弁護士の立場に立った場合、誰がその弁護方針を責められるのだろう?ということです。
ただ、それでも、私たちは、過去の人々の行為の責任を問わなければければならないのではないか、とも思うのです。本来、このような弁護活動が行われることを認めることは出来ないのです。わかってあげるべきでしょうか?では、そう出来なかった当時の状況というものを私たちはどれほど具体的にわかっている、と言えるでしょう?わかったような気になっているだけではないか。戦争直後の混乱時だからしかたない、みたいに。
上記決定は、かなり踏み込んでいます。それでも、本当の状況はどうだったのか・・・もちろん、本当に混乱期だったのでしょう。「同弁護士は,終戦後間もない時期に裁判所内で何らかの書類が焼却されているところも目撃して」います(『ある弁護士の歩み』)。裁判所の体制もぐちゃぐちゃだったのでしょう。この混乱ぶりは元被告人自身ものちに述べています。
興味深いのは、刑事補償決定は特高警察には「故意に匹敵する重大な過失」、検察官及び予審判事には「少なくとも過失」、そして裁判官にも「慎重な審理をしようとしなかった過失」を認定し、その上で弁護人には責任がない、と判断している点です。
国家機関は他にと採るべき選択肢があったけど、民間の弁護士は弁護人として責任をもって仕事をすること・・・それが、困難な時代だったということでしょうか。立場が違うから、治安維持法があったから、戦時体制だったから、拷問は当たり前だったから、死の危険があったから・・・。
特定秘密保護法が施行され(2014/12/10)、安保法が施行され(2016/3/29)、刑事訴訟法の改悪が成立(2016/5/24)しました。同じように選択肢が狭められる時代にならないか。
「今日であれば,記録も見ずに被告人に有罪を押し付けるがごとき弁護活動は決して許されない」と裁判所は指摘していますが、この「今日」は未来にも続くのか、十分に警戒する必要があります。本来するべきことをしなかったことを「わかってあげなければならない」時代というのは最悪だと思います。そんな時代に生きるのはごめんです。
後で言い訳をしなくていい生き方をするために、今、私たちはきちんと選択する必要があると思います。まだ間に合うと思います。頑張りましょう。