ラディカル・アーツの学び方へ | 御苑のベンゴシ 森川文人のブログ

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 本日の夕刊一面に、いわゆるリベラルアーツの定義が「ギリシャ・ローマ時代の自由7科(文法、修辞、弁証、算術、幾何、天文、音楽)を源流とする、人間を自由へと解き放つ人間形成のための学問を指す。」と示されています(朝日5/16)。

 人間を自由へ解き放つねえ・・・・。あの『絶望の裁判所』と『ニッポンの裁判』という極めて鋭い暴露を行った元裁判官の瀬木比呂志さんの『リベラルアーツの学び方』は、早々に購入し、とりわけ「リベラルアーツとしてロック」という項目におけるロックその他の音楽に対する愛情にとても共感しましたが、全体としては「リベラルの自由って、保守的だなあ」という感想でした。

 もし本当に、言葉の意味通りに、人間を自由へのと解き放つ、というのであれば、「あらゆる」、「すべての」、発想や、思想が対象とされるべきでしょう。

 だけど、瀬木さんの『リベラルアーツ』も、革命思想は出てきません。マルクスもレーニンも、バクーニンも、ローザ・ルクセンブルクも出てきません。

 というか、むしろ、なんらかの都合で、巧妙に避けられているのでしょうね。瀬木さんがマルクスを読んでいないとは思えません。そして、「自由」を提示するのであれば、批判・思考の対象としてでも、『資本論』をあげないのは不思議としかいいようがありません。

 まあ、そんなもんかな。寂しいというか、むなしいというか・・・自由を謳う以上、いろいろ出てくるのかと期待したんですけどね・・・。不自由だなあ。


 私は、「自由」に考えようと思っています。限定された保守=リベラル的な意味にとどまらず、言葉通りの意味で、自由にいろいろ知りたいと思います。ある思想が違う、もしくは狭いな、と思えば、次に行きたい、というか自分で自分の自由な思想を持ちたいですね。

 リベラル、という言葉には、自由という意味も含まれているので誤解を引き起こしていますが、基本的に、保守的な幅の中の、つまり限界のある自由、と思った方が正確だと思います。

 実際、人類は、もっともっと「自由」な発想を持ってきました。しかし、今や、資本主義が、「自由」の範囲すら、コントロールしようとしています。

 いやだなあ!私は、思想としては、当然にliberal=保守の思想も包摂するradicalな思想に自由を感じます。もっともっと自由な思想ならより!

 狭いliberalを飛び出して、radicalな発想を持ちたい人々のためのラディカルアーツというあり方が、今、必要だと思います。

 自由は、大事ですよ。時に、支配されることが楽だとしても。はみ出さないとなあ!