昨年、3月に上程され、そして再度、上程された「盗聴拡大・司法取引・証人隠蔽・取調べの録音・録画」等の治安立法の成立が危ぶまれる状況にあります。
これまで、何度も、この法案に対する反対のブログは書いてきましたが、しつこく書いておきたいと思います。歴史的に重要な局面だからです。
最近になり、かなり反対の声が増加していますが、日弁連は、この法案の成立を推進する旨の声明を3度も出しており、撤回は未だしていません。つまりは、安倍政権の政策に推進の立場に立ったということです。
その方便として、「取調べの可視化」の一歩前進、が挙げられてきています。何度も言ってきていますが、警察・検察側が・逮捕後、取調べの場面だけを・録音録画することが・何故、「可視化」になるのでしょうか?
義務化すれば、抑止力になる?取調べ以外のパトカーの中、廊下、非公式の取調べで、恫喝・誘導は可能です。そうするでしょう。いや、ともかく、全てが録音・録画されれば、公開される可能性があり、暴力的な取調べはなくなるだろう?様々な例外が設けられ録音録画がなされないこともあるのは予定済みです。
基本的には、国家観の甘さが、このような、ありえない「全面可視化」の幻想を生み出していると思います。国家は、基本的に国民に対し、「性善」であり、たまたま悪い支配者が選ばれた時だけ、悪をなすにすぎない、みたいな。
何故、そのような発想が生まれるか、といえば、国家及び支配層=大資本がそのような「教育」を施しているからです。曰く、「民主国家である」、とか。
国家は、常に、私たちと非和解的に対立し、融和的に見える時は、それが「利用」できる時であり、支配という発想に立つ存在です。「法律」も「議会制」も「憲法」もその限りで、「支配の道具概念」にすぎません。
ちょっと難しいか・・・まあ、ようするに国が俺たちにいいことするときは騙すときだし、基本、資本家階級の代理人だよ、ってことです。
「これが、捜査過程の全ての真実ですよ」って警察・検察が言ったからって信じられるのか?ってことです。
・・・「取調べの全面可視化」・・・この概念自体、一つのアイロニーであり、欺瞞であり、刑事弁護人の集団である日弁連に対する「挑戦」であるにもかかわらず、まんまと騙されている・・・ひとえに、闘う刑事弁護の経験と姿勢が今の日弁連に欠如している、ということだと思います。
こんな日弁連が、国家権力の横暴に疑問を持つ人々の立場にたてるのかな?
甘いなあ・・・ちゃんと無罪を争う刑事弁護を経験すれば、国家権力なんて自己の保身のために、無罪の証拠なんて隠しまくる存在だってわかるはずなのに、なんで信頼しちゃうの?こんなで、21世紀の治安維持法に賛成しちゃうなんて、ひどい話だなあ。
なんで、そんなに盲目的に、警察・検察を信じられるのかねえ・・・