3月3日、東京地裁にて、横浜事件国賠訴訟が結審となります。現在、最終準備書面作成中。
本事件の弁護団は河村健夫、山本志都、吉田伸広らの構成ですが、私は、弁護団長ということなので、「はじめに」と「おわりに」を執筆担当。
はじめに
本件国賠訴訟は、横浜事件の元被告人らが戦後行った名誉回復の為の闘いである再審請求において免訴判決が確定し、その後、刑事補償決定がなされたことを踏まえ、それでも回復しきれない損害、名誉の回復を求めて遺族から提訴された事案である。
治安維持法体制は、帝国議会と政府が「産みの親」だとすれば裁判所は「育ての親」と評されるように、当時の裁判所は治安当局と「一心同体」であった。この裁判所及び司法の罪=責任をこれまで裁判所が明確に認めたことはない。
横浜事件を含む治安維持法違反事件につき、裁判所は、戦後になっても結局は過去の自らの過ちを正面から取り上げりことを避け責任が追及されることを回避し続けてきたのである。
特高警察の拷問の事実を見て見ぬ振りをして、その拷問により得られた自白を証拠に有罪判決を下した裁判所の責任は重い。
そもそも、治安維持法下においても、拷問を行うことは違法であり、また、保管義務がある裁判所が判決等の訴訟記録を焼却隠滅することもまた違法である。
それにもかかわらず、これらの治安維持法下、さらには戦後まで続いた一連の違法な国家行為の責任はこれまで不問にふされてきた。本訴訟においても被告国は、拷問も焼却も認めず、さらに国家無答責などの無恥な信じがたい主張を貫こうとしている。これでは戦前となんら変わらない。
原告らは、現在の裁判所にその国家としての責任を明確にすることを求めるものである。あらゆる法論理を、責任判断を避けるために駆使するのではなく、司法として責任を全うするために行使すべきである。
おわりに
「裁判所に検証という言葉はない」と指摘されて久しい。検証とは、過去の誤りを直視し、誤りの原因とそれによって発生した被害実態などを詳しく調査し、再発防止のために必要な施策などをこの検証のなかから導き出すという作業である。裁判所は裁かれない、ということである。
本件訴訟は、この裁判所の検証を行う、まさに絶好の機会である。この機会を逸すれば、それは司法の責任放棄であり、戦前の裁判所となんら異ならないということである。
1945年9月15日、当時の裁判所も正しい事実認定に基づき判決を下す義務があったにもかかわらず、それを怠った。拷問による自白という事実に向き合おうとしなかった。その上、将来の責任追及を免れようとして法を犯して裁判所の存在意義ともいえる判決及び訴訟記録を闇に葬った。
「地獄への道は善意に敷き詰められている」というが、この裁判所の行為は到底、「善意」ということすらできない。治安維持法体制下において自らの「罪」を知りながら粛々と体制のために協力してきたが故に、敗戦後、あわてて自らの罪の証拠を隠滅しようとした裁判所の「地獄への道」は必ず裁かれなければならない。
自ら、つまり裁判所自身が裁くべきである。本件に時の経過による免責を認めることは「検証」の機会を放棄することである。
被告国は、本訴訟に及んでも、戦前の拷問の事実も、国家的な証拠隠滅の事実も認めない。
今、再び、新たな戦前化に向けて集団的自衛権の行使容認法、戒厳令に等しい緊急事態条項新設のための改憲が目論まれるだけでなく、すでに施行されている特定秘密保護法に加え、盗聴拡大・司法取引・証人隠蔽・取り調べの録音などの捜査権拡大などの監視国家化を「再び」目指す治安体制の強化が狙われている。
先の「検証」抜きには、新たな治安維持法体制が再び構築が繰り返されないとの保証はない。新たな治安立法が成立すれば、裁判所は再び、その法に従い、法を当てはめ、治安当局と一体になって人々を弾圧するだけではないのか。そうしないという保証はあるのか。自らの罪に向き合う自浄能力があるのか。
私たちは現在の裁判所に自らの「罪」を自ら裁くことを求める。
裁判所を裁くのは、誰でしょうか。歴史でしょうか。私たちで裁きましょう!