行わざるを得ない戦争? ナショナリズムを乗り越えよう! | 御苑のベンゴシ 森川文人のブログ

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 北朝鮮の核実験やミサイル発射、それに対する米軍の原子力空母の配置、南沙諸島付近での中国と米軍の緊張、パク大統領の決意表明と受け取れるコメントなど、東アジアの戦争への情勢は一気に高まっています。・・・明日、始まってもおかしくないぐらい。

 私としては、だからこそ、今だからこそ、反戦を訴えるべきだし、戦争を避けるための発言と行動をしていくべきだと思うのですが、案外、「近く」にいるはずの人の感覚にズレを感じることがあります。

 「攻められたらどうする?」「専守防衛はやむを得ない」などの戦争動員のナショナリズム的な「常識」が刷り込まれているのだと思われます。

 「別にあなたが攻められることはないよ」とか「戦争反対じゃないの?」と言っても、いざ、臨戦状態になったら、一気に、自分と国を一体的に考え、自分と国を守るために殺しあうことはやむを得ない、少なくとも間接的に協力=つまり戦争反対を唱えるのは控えざる得ない(だって、周りになんて言われるかわからないじゃない)ということのようです。

 改めて、びっくりですが、戦争の動機は、それぞれの国の政府・資本にはあっても、国民にはありません。北朝鮮の国民にも、中国の国民にも、そして日本の国民にも。

 あるとすれば、それはナショナリズムの洗脳のなせるワザ。もっとも、このナショナリズムの染み込み具合というのは、どの国の民衆にも信じられないくらいどっぷり浸されているということなのだなあ、と改めて思います。

 「え~? だって、あなた平和のために集団的自衛権行使は反対、だと言って、発言し、活動してるんじゃないの?」と言わざるを得ないような人が、「こんなアジアの情勢だと・・・」とか「日本が攻められたら・・・」とか口を濁すのです。ひえ~!

 戦争をしようとしているのは、仮想敵国の政府かもしれませんが、身近なところでは自国の政府です。なので、戦争をしようとしている自国の政府を打倒しようというのは反戦の活動としては正しいと思います。その上で、同じような立場にある他の国の人々と連帯して、それぞれ自国の政府を打倒しようぜ、って伝え合うことが改めて、改めて、大事だと思います。

 攻められたら守るためには戦わなければならない場合がある、という感覚はある意味正しいでしょう。ただ、それは、どちらかといえば、利害なき他国の国民に対して考えるべきことではなく、むしろ、騙して動員しようとしている自国の政府に対して向けるべき発想でしょう。

 私たちは「私たち」を守るためには闘うべき場合はあると思います。日本国や日本の資本ではなく「私たち」を、です。

 私たちが守るべきは私たちの生活であり、日本国なんかじゃありません。日本のため、国のため、という非思考的なキャッチフレーズに振り回されずに、自分自身、目の前にいる家族、仲間の人々が、くだらない戦争に巻き込まれないよう注意を促し合わなければな、と改めて思う次第です。