1日疲れて帰ってきて、テレビを何気なくつけると、賑やかなお笑い番組がやっている・・・ああ、コイツ、面白いんだよなあ、あはは、また騙されてやがる(笑)、え?ニュース?こんなヘトヘトじゃあ、暗い話ばっかりのニュースなんか観てられないよ・・・。
という人も多いのではないかと思います。私はそうしませんけど。それでも、子どもたちはテレビ局のタレントを使った誰かを騙して笑う、という想像力の乏しい「お笑い番組」でも楽しそうに観ていたりします。
そうしているとテレビの中が「世界」のように思えてきて、下手すれば、現実世界の戦争やマイナス金利や北朝鮮のミサイルの迎撃や戦争法案より、タレントの名前の方が詳しかったりして、すっかりちゃっかり、現実とは異なる「世界」が構築されそうです。そんな大人もいそうです。
これはジョージ・オーウェルが『1984年』で、そしてレイ・ブラッドベリが『華氏451度』で予言したディストピアの姿とほぼ重なります。
テレビを見るという行為は、受動的な行為であり、主体的・積極的に思考することを困難にします。そして、テレビの役割としては現実の情報を伝える装置というよりも、現実から逃避させるエセ現実世界を構築させる洗脳装置としての方が大きくなっていると思います。CMの世界の異様な「平和さ」が一つの典型でしょう。
考える、ということは人間の人間たる出発点だとすると、テレビは、その人間性を奪い、奴隷化するための装置として機能していると思います。
本を読む、ということと、テレビを見るということを比べれば、テレビを見るというか、眺めるというか、スイッチを入れておく、ということは極めて「楽」で、本を読むことは、字を追い、イメージを作り、記憶し、考えながら行う「疲れる」行為です。
だから、支配者は本を読む人間を嫌うのです。テレビを四六時中観ながら、「本じゃ世界はわからない」「フィーリングが大事」というプロパガンダに染まった「考えない人」=奴隷を作りたいのです。
昔、読んだ古典的SF作品に、コンピューターが発達した近未来を想定し、そのコンピューター社会についていけない子どもたちを収容する施設・・・実は、後の指導者候補の英才教育施設というような話があったかと思います。・・・アシモフだっけな?
考える、というのは疲れるし、ゆえに努力が必要だし、だから体力が必要だし、生き抜くという強い主体的な行為だと思います。このメディアが発展した時代、テレビモニターの前から逃れるのは確かに困難で、私たちは、すでに誰でも幾ばくかは「奴隷化」しているのではないでしょうか。
本が静的で、テレビが動的というのは全く逆です。抵抗しましょう。テレビを消して本を読みましょう。私たちの本当の世界、歴史が私たちの前に立ち現れ、世界が動き出します。