過激で豊かな、私たちのアナログな日常  | 御苑のベンゴシ 森川文人のブログ

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 『あなたを選んでくれるもの』(ミランダ・ジュライ)という本はアメリカの「一般の人」を対象にインタビューした本ですが、基本的にネットを利用しない層の人たちで、「一般人」ってこんなにも豊かで個別で変化に富んでいるんだなあって思わされます。

 というよりも、「過激」だと思えるほどすごいです。過剰だったり、異常だったり、足首にがGPSを付けされていたり、移民だったり・・・まあ、それが普通の人だということでしょう。

「ネット以前のわたしの生活が今と極端にちがっていたというのではない。でもあのころ世界は一つしかなくて、すべてのものがそこにあった。ドミンゴのブログは今まで読んだどのブログよりも素晴らしかったけど、それにアクセスするためには彼の家まで車で行って、生身の彼から直接それを聞くしかなかった。しかも検索でかれにたどり着くことはほぼ不可能だ。彼を見つけることができたのは、ただの偶然だった。」

と著者は書いてますが、確かにブログとはネットの世界の話で「ネット以前」の世界にはブログ的なコンテンツはあったけど、そんなもの、どこかで出会って話聞くってことだったと思います、例えば、学校で知り合って、バーで知り合って、もしくは警察署の接見で知り合って・・・そういうのスリリングで楽しいですよね。

 ネット=デジタル・インターネット・パソコンではない世界=アナログの世界が私たちの現実です。そのアナログの世界は結構、豊かです。過激なのだと思います。ネット的に平準化=平凡化=平均化しにくいというか。

 サルトルは「地獄とは他人である」と言ってます(『出口なし』)が、あえて曲解すれば、他人という実在は理解しがたい豊穣さを持っているということだと思います、自分にとっての永遠の「謎」だということだと思います。いうほど平凡な人はいません。それは弁護士の仕事をしていても実感します。

 つまり、私たちの「アナログな日常」は、それだけで過激なのでは?と思います。だって、テレビのCM的世界、お笑い番組、整理されたインターネット内って自分の現実(アナログ)を越すようなことはないでしょ?なんとなく「平和」で「現状維持」で、「他人事」で・・・。

 かつて、井上陽水は、「傘がない」という曲を作りました。
   テレビでは我が国の将来の問題を
   誰かが深刻な顔をしてしゃべってる
   だけども 問題は今日の雨 傘がない
   行かなくちゃ 君に会いにいかなくちゃ
   君の家にいかなくちゃ 雨に濡れ

 この歌は、当時のテレビ的な政治状況への嫌気としての日常を貫く姿勢みたいな意味だと思いますが、当時の状況下においては十分「過激」だったのだと思います。こんな「過激」な歌はイマドキないですもんね。

 実際、テレビの中や、ネットの世界で何が起こっても、現実=アナログに直ちに影響なければ、関係ないですよね?
 
 その延長でいけば、デジタルな感受性の中で、戦争が始まっても、放射能が漏れても、株が下がっても、アナログな自分に関係なければどうでもいい。それは、確かにそうかもしれません。
 だから、戦争が始まっても、改憲されても、緊急事態(武力攻撃、内乱)になっても、それでも「自分に関係なければ」、自分のアナログな日常を貫けばいいのだと思います、「傘がない」的に。

 そうじゃない場合、つまり、戦争や改憲や非正規の拡大が「自分と関係ある」とアナログに感じるならば、それに応じた日常を送ればいい。

 つまり、「君に会いに行かなくちゃ」いけない日常のために、政治でも運動でもネットでもなんでも自分のアナログな日常に取り入れればいいのだと思います。

 怪我して痛かったり、お腹が空いたり、面罵されたり、逆に、頑張って15㎞走ったり、美味しいもの食べたり、そういうアナログな感じというのは、私たちが直に体験するという意味で日常だし、そのような日常が脅かされるのであれば、必死に、過激に、闘うのは・・・アナログな日常の世界では・・・当たり前のことだと思います。

 ドラマーの村上ポンタさんも「給料が6万円の時に借金してでも本物を見に行く人間と、動画サイトを観てわかったような気になってる人間とじゃ、まったく違うのは当たり前だよ」(『ポンタ、70年代名盤を語る』)と言ってますが、まあ、そういうことだと思います。音楽も「生」じゃないとね。そして、「生」は、結構、過激で豊か、ってことです。生な日常に誇りを持ち、そのために闘いましょう、アナログに。