家族のこと、職場のこと、地域のこと、学校のことなど自分の身の回りのことほど結構、手をつけにくいというか等閑(なおざり)になってしまったりします。なんだろう?、近すぎる関係性の中で議論をしたり、物事を変えていく、というのは軋轢(あつれき)が目に見える分、躊躇してしまうということでしょうか?
どうでもいいと思っているなら逆に言いたいことを言い、軋轢を生み、変化を生じさせることをもどうでもいいと思えるはず。ということは、関係をどこかで大事にしているからこそ、関係を破壊するかもしれないような波風を立てたくないという思いが近い関係には働いてしまうのでしょうか?
で、日弁連のことです。弁護士は全員、日弁連の会員です、現在、例外はいません。つまり、弁護士によって、弁護士の負担によって成り立っている自治組織です。なので、弁護士としては、日弁連のことは「自分のこと」になります。
いやいや、全然そんなこと思わないよ、日弁連なんてどうでもいいよ、なんの役にたつの?俺、関係ないもん、会費ばっかりとられるくらいならなくなってもいいよ・・・なんて意見もちらほら。
私もかつては、そんな印象だったな。会長が誰かも知らなかったし、関心もなかったし。しかし、日弁連がおかしくなりだした・・・90年代の後半くらいからかな、ともかく「司法改革」に迎合する方向に走り出した、決して、弁護士にも、人々のためにもならないのに。
国会前で安保法案に反対する学生が、自分の大学ではビラまきも立て看板も禁止されているのに、それをただ放置しているだけだったら、ちょっとそれは、やはり身近なことだからできないのだと思うけど、そのスタンスはどうかな?と思いますよね。
弁護士も日弁連のことはやはり自分たちの身近なことなのではないかな?少なくともどういう方針を持った人が選ばれたか、は端から見れば私たちの選択として映りますよね?
私がどうしても納得できないのは、2000年頃、弁護士を増やそう、仕事はいくらでもあると弁護士激増路線に踏み切った執行部派の方々が、今になって「この閉塞状況を打破しよう」なんて、まるで他人事のように自らの誤った方針化を知らんぷりしているところです。まったく、どの口が言うのだろう?!「閉塞状況」を予測できなかったしたら能力がないし、予測していたとしたら許しがたい・・・いずれにせよ退場願いたいです。
責任は私たちで取りますよ、自分たちのことだから。そういうつもりで自分の組織である弁護士会の選挙に関わってきたし(大変だし、好きでやってるわけじゃない!)、それは自治=民主主義に必要な主体としての責任の発現だと思っています。「野党根性」ではありません。
「観客」でもなく、「万年野党」でもなく、俺だったこうする、こういう、という主体の発現をやはり身近な現場で始めていかなければならない、と改めて思います。自戒をこめて。なかなか大変だけど。
投票日は、2月5日(金)。たかが日弁連、されど日弁連。今年の夏、大きな選択の時がきそうですが、その前に、自分たちの場所の自治と民主主義を主体的に実現していきましょう。