「革命的祖国敗北主義」と「祖国防衛主義」のリアリズム | 御苑のベンゴシ 森川文人のブログ

御苑のベンゴシ 森川文人のブログ

ブログの説明を入力します。

 国連安保理の制裁決議がなされようとしています(1/16)が、北朝鮮の核実験につき「リアルな危険があるのではない」と否定した共産党の志位委員長(1/6)の意図は、これを日本の脅威だとか平和を脅かすものと認めるわけにはいかない、ということも一つあると思います。

 認めてしまうと、集団的自衛権にせよ、個別的自衛権にせよ、我が国の平和を守る為の戦争を認めざるをえないから?・・・ではないかと私は思っています。

 北朝鮮の核実験をどう「評価」するかについては、1、そもそも水爆かどうかも怪しくて、ぜんぜん、客観的に脅威でもなんでもない。2、いや、何しでかすかわからないという意味では「脅威」である。3、北朝鮮自体は脅威ではないが、それにかこつけて韓国、アメリカ、中国、そして日本が攻め込む可能性があるという意味において「脅威」である等の「評価」があると思います。

 私は、どれかといえば、3です。北朝鮮という国家の政権は崩壊間際、だと思っています。したがって、国家としての命脈は時間の問題、それだけに、軍事的冒険主義で何をしでかすかわからない部分があります。それは、本当の意味での「脅威」ではなくても歴史的の「事変」や「トンキン湾」のように、攻めたい=侵略したい側の根拠作りに役立つ可能性はあるのではないでしょうか。

 そうだとして、どうするか。ところで、「革命的祖国敗北主義」というのがあります。レーニンが唱えたスローガンですが、帝国主義戦争を内乱(革命)へ、というものです。つまり私たちを動員して戦争をしようとしている自国政府を倒そう、それが反戦だ、というメッセージ。過激かな?しかし、とても原則的な「戦略」だと思います。

 どの辺が原則的だというと1、(民衆の)国際連帯という思想にマッチする、2、祖国=ナショナリズムという囚われの思想と決別している、3、戦争をしようという利害・意図を持つのは政府と大資本であり、わたしたち民衆ではない、ということが明確である、というところです。

 しかし、この発想に乗るのが案外難しいのだと思います、とりわけ「リベラル」という辺りの方々は。ギリギリのところで、インターナショナルを名乗る労働者の組織も結局は、「祖国防衛主義」に走ったというヨーロッパの歴史もあります。

 祖国ねえ・・・。なんでしょねえ? 故郷でも、地域でも、古里でもない「祖国」ですよ? 私たちにとっての「祖国」とは一体なんなのか?常にこの問題に戻ります。

 労働者に国境はない、愛に国境はない、国境なき医師団、などは、まさにインターナショナルな国際連帯の反戦思想です。されど「祖国」なのか・・

 簡単には割り切れない話です。「祖国」って骨の髄まで私たちの体にしみ込んでいる感じ・・・。しかし、誰を仲間と考えるか。自己のアイデンティティーをどう持つか。
 いずれにせよ、他国の同じような境遇の人々と私たちが殺しあう必要はないのであって、ともかく闘うべき相手を間違えるな、ということだと思います。

 こんな原則的な発想すら言いにくくなってきたら怖いですね。