成人の日だそうです。11日・・・なんだか未だピンときませんが、各地で成人の日の行事が行われているようです。私も、当時、新宿文化センターに友だちと連れだって行ったなあ。あの頃は楽しかった・・・かなあ?
「ぼくは20歳だった。それがひとの一生でいちばん美しい年齢だなとだれにも言わせまい。」と書いたのはポール・ニザンですが、まあ、そんなものですね。
若さというのは、客観的に眺めるようには、自分では見ることはできないですよね。主観的にはなんというか、鬱屈、不満、自意識、卑屈、視野の狭さでパンパンだった印象で、もちろん美しくなんてないし、楽しいわけでもなく、自分が覚えているのは「自分は何者足り得るのか」という「焦り」の気持ちで、いつもうつむいていたセルフ・イメージです。
今、若い人を見ると、やはり「いいなあ」って思います。輝いて見えます。なんでかといえば、まさに「若さ」の初々しさ、可能性でしょうか?・・・いいなあ。
まあ、若くなくなっても鬱屈した気持ちが満足に変わるかというとそんなことはなくて、ただただ、初々しさや残り時間が失われていくだけ、ともいえますが、若い時に自分の若さを前向きな可能性と認識することはなかなかできないのでは、と思います。
それにしても、今の二十歳を取り巻く状況は、東アジアの軍事的緊張であり、世界恐慌の深化であり、非正規職の拡大、少子化、改憲への動き・・・などなど、私の二十歳のときと比べても格段にキビシイ状況だと思います。たいへんだなあ・・・もうすぐ二十歳になる息子たちの未来を考え、そして自分に残された時間を考えると、やはり「焦り」を感じます。
私が20歳の頃、たまたま読んだ『されど われらが日々』(柴田翔)に以下のような記述があります。
「やがて、私たちが本当に年老いた時、若い人たちがきくかも知れない、あなた方の頃はどうだったのかと。その時私たちは答えるだろう。私たちの頃にも同じように困難があった。もちろん時代が違うから違う困難ではあったけれども、困難があるという点では同じだった。そして、私たちはそれと馴れ合って、こうして老いてきた。だが、私たちの中にも、時代の困難から抜け出し、新しい生活へ勇敢に進みだそうとした人がいたのだと。そして、その答えをきいた若い人たちの中の誰か一人が、そういうことが昔もあった以上、今われわれにもそうした勇気を持つことは許されていると考えるとしたら、そこまで老いて行った私たちの生にも、それなりに意味があったと言えるかも知れない。」
これを1982年頃に読んだときには、正直、「んな昔のこと言われてもねえ・・・」とよくわからなかったのですが、だんだん・・・いやだなあ・・・わかるようになってきた気がします。
ソクラテスが「最近若者たちが年長者の前で騒がしすぎないか。年長者に敬意を示し、席を譲ることを怠っていないか。両親を敬わず、衣服を浪費する。服装も髪型も行儀もすべてだ。違うか?そうだろう!」と言っているとプラトンの『国家』に書いている(『戦略読書』三谷宏治)そうで、ジェネレーションギャップは常にあるようです。
だから、そんなギャップは気にせず、何歳になろうと、時代の困難から抜け出し、新しい生活へ勇敢に進みだす勇気を奮い立たせなければ、と思います。どんな形でも、何か意味のあることをして、それを継承していきたいですからね。