高校のとき、教室の後ろの方に、ちょっとした本棚があって、そこに三島由紀夫の『不道徳教育講座』(1960年刊)があったと思います・・・本当かな?
その中で、確か、若い女性が男性に対して「あなたは私の体が目的なのね」と非難するけれど、その非難する女性が、体ではなくて目的されるべきと自覚しているものは何?みたいな話があったと思います。
三島由紀夫らしいウイットというか皮肉だと思うのですが、印象が残っています。女性じゃなくて、男性でも同じでしょうけど、肉体、経済力、ルックスなど「表面的」とされているモノではなく、「自分を見て欲しい」「私を大事にして欲しい」「私を愛して欲しい」みたいなことは、確かに誰もが考えたりすることですが、さて、その私の愛されるべき価値とは?
大事なのは、心だよ、というのが答えなのかもしれませんが、「私の心はこんなに素敵だよ」なんて言い切れる人もまた、少ないでしょう。
では、人の価値というのは何か? これまたムズカシイ問いですが、今や、かつて三島由紀夫が皮肉った表面的なモノ、カネ、ルックス、そしてセックスこそが価値、みたいな新自由主義的な常識が蔓延しているような気がします。
音楽だろうが、スポーツだろうが、学問だろうが、ルックスだろうが、価値あるものは成功し、金銭的な評価を受けるはず、みたいな価値観です。いいとか、悪いとかは、後回し。
・・・ところで、今週、法律相談を受けた案件、事務員と一緒に相談を聞いたのですが、なかなか難しい案件でした。要は、お金がなくて税金も払えないという話で、弁護士としても報酬のもらいようのない案件でした。
しかし、私も事務員も、それでもこの目の前の人を助けようじゃないか、助ける方法を考えよう、という点では一致しました。ともかく、いろいろ調べてみよう、なんとかしてあげないと!ってことです。
お金にならないことに価値がないとしたら、無価値なことですが、現在、まだ、多くの街弁が、たぶん、このような感覚を持っていると思います。だいぶ、司法改革という新自由主義の攻撃により弁護士も変質させられていますが、弁護士とはこういうものだ、人を助け、人の役に立つ、それゆえに誇りを持てる仕事なんだ、という価値観はまだまだ残っています・・・本当かな?
それを失ったら、結局、三島由紀夫に笑われそう。
あなたは、そんなことはない、カネじゃないよ! カラダじゃないよ!と言い切れるでしょうか? だって、私はこうしているもの!俺ってこうだもの、って・・・。
・・・いや、言い切って欲しいなあ。言い切りたいなあ。