昨日は、横浜事件国賠訴訟の第17回期日で、前回の原告木村まきさんに引き続き、小樽商科大学の荻野富士夫先生の証人尋問が行われました。
治安維持法研究の第一人者である荻野先生は、治安維持法の思想弾圧の実態、拷問の実態、さらに証拠隠滅の実態を暴き出し、国=特高刑事、予審判事、裁判官らの責任を暴き出しました。
当初、70年近くも前の話であること、体制が異なる時代の話であること、刑事補償がなされていることなど、提訴をしても、下手をすると門前払いに近い形で蹴られるのではないかと訝っていた本事件も、ともかく、裁判所中で、裁判所の責任を抉る、鋭くも感動的な尋問をすることができたのは一つの達成だと思います。
荻野先生は、特高や裁判所が証拠隠滅したことが自主判断である可能性、ないとされている横浜事件の当時の判決等の訴訟に関する記録が保管されている可能性にも言及しました。
さらに、亡くなった元被告人の木村亨さんから第1次再審申立の直後の1986年頃、電話があり、会って話をし、そこから単なる研究者から、いわば、闘う学者として自分が生きるようになったことなどを感動的に語られていました。
思えば、1986年、司法試験の択一試験に落ちてヒマだったが故、父の鞄持ちとして横浜地裁に第1次再審請求の申立に行き、たくさんのテレビカメラ、新聞記者らに囲まれながら申立を行った様子を私は間近で見ていたのです。その時、建て替え前の横浜地裁の中庭に面した廊下でぼ~っとした私にどこかの新聞記者さんが話しかけてきたのを覚えているのですが、思えば、その「中庭」こそ横浜事件の判決等を燃やしていた場所、だったのかもしれません。
荻野先生の話では、建て替えなどで建物が立ってしまったその下に、燃え残ってしまった戦前の記録が埋もれている事案もあるとのこと・・・。
「あれは、戦争中の話だから」という「戦中と戦後の切断」は成り立つのでしょうか?成り立つとすれば、大義名分や自国を守る為といって行われる「次の戦争」も終われば、国家機関は「あれは戦争の話だから」と言って証拠を隠し、逃げようとするのだと思います。
この国賠訴訟では、そのような「切断」を認めずに、戦中の国家の責任とその責任を隠蔽しようとした裁判所の責任を今、追及しようという試みです。
木村さん個人の中では、治安維持法で逮捕され、拷問により虚偽の自白に基づき有罪判決を下された事実は戦中と戦後で全く断絶しておりません。だから、一生をかけて名誉回復の闘いをやり抜いたのです。
私は、生前の木村さんと父親の闘いを当初、どこまで法的に本気なんだろうと思っていました。再審開始決定の扉をこじ開けた時、びっくりしました。そして、反省しました。やはり闘いは諦めてはいけない、始めなければいけない。これが、木村まきさんの横浜事件国賠を引き受けた理由です。
来年3月3日結審。最後まで闘い抜きます。
*写真は1988年 父と木村さんに挟まれている私(26歳)です。