20年前、世間を騒がせたオウム真理教。昨日、菊地直子被告人に東京高裁で逆転無罪の判決が下されました。私は、この事件の証拠等を知っているわけでもないので具体的な判断はできませんが、いわば「世間に裁かれた事件」とも言えるオウム真理教関連の事件での無罪ということで感慨があります。
高裁の結論は「被告が事件当時、殺人未遂のようなテロ計画の認識があったという推認が可能という原判決の認定は、根拠の不十分な推認を重ねたもので、経験則、論理則に照らせば、殺人未遂を手助けする意思を認めるには合理的な疑いが残る。」というもので、刑事訴訟の原則に沿っての判断ということです。
裁判官・裁判員に、事件全体の証拠を十分に把握する権利はありません。検察官が法廷に法の手続きに従い検出することの出来た証拠に基づいて判断するしかありませんし、してはいけないのです。その法廷に現れた証拠が不十分であれば・・・当然、無罪という判断を下すしかありません。
まあ、裁判ではなくても同じですよね?なんらかの根拠=証拠がなくては何にも認識することはできませんよね。もちろん、推認による判断だって構いません。しかし、推認の根拠も必要です・・・よね?
この事件に関する様々なコメントが興味深いです(朝日11/28)。
ある警視庁幹部は「事件当時は、オウム信者を微罪でも捕まえろ、という世論の後押しがあった。年月を経て慎重な司法判断が下されたのではないか。」などとまるで他人事・・・じゃあ捕まえるなよ。
元検察幹部も「事件に直結する役割ではなく、元々、立証に難しさはあった。」とあからさまな開き直り・・・じゃあ、起訴するなよ。
一番興味深く、そして裁判員裁判の危うさ、恐ろしさが露見しているのが、一審で裁判員を務めた方の以下のコメントです。
証人の記憶はあいまいで、「何が本当なのか判断が難しかった」「その分、自分の感覚を大事に意見を出した。」・・・
つまり、「何が本当なのか判断が難し」い場合は、有罪の証拠が不十分ということで「疑わしきは罰せず」を持ち出すまでもなく、無罪では?と思うのですが、そこを「その分、自分の感覚を大事に意見を出した。」、つまり、有罪に判断したということです。う~ん、裁判員裁判ってちゃんと判断できるのかなあ。
この方はさらに「内心は推認するしかなかった。それがだめだというなら、裁判員裁判は証拠がそろった事件だけを対象にするしかななくなるのでは」とコメントされていますが、裁判員裁判でなくても、証拠がそろった事件しか有罪に出来ないのは当たり前です。
ちょっと・・・いや、かなり恐ろしいことです。裁判員裁判においては、職業裁判官よりもさらに、恐ろしくフリーな判断が横行しているのではないでしょうか。
降幡賢一元朝日新聞編集委員は「事件のころ、菊地元信徒は教団が『宗教弾圧』を受けていると考え、自分たちを教団の『戦争』に駆り立てようとする意図にも気づかずに、与えられた仕事を忠実にこなしてきた。」とまとめていますが、何かの意図に気づかずに与えられた仕事を忠実にこなしてきたのは、警察官も検察官も、そして裁判員も同じではないでしょうか?・・・何か役割意識が駆り立てられていたんじゃいの?
裁判員制度は、こういう制度であって、刑事裁判のルールの破壊だと思います。裁判とは、人が何かを判断する、という場合の精密化・厳密化・正確化のための方法を人類が歴史上築き上げた結晶ではあると思います。偏見・予断を排除し、政治的・宗教的・思想的バイアスをできるだけ排除し、真実に近づくための方法が刑事訴訟手続きに集積されてきていると思います。
証拠=根拠がなければ思う=認識することはできません。証拠が伝聞であったり、報道であったり、曖昧であれば、確証を持つことはできません。つまり、犯罪を犯した=有罪と認定することはできないので無罪なのです。
偏見を持たず、ただただ目の前に与えられた証拠だけで判断するということは、とても難しいこと、そのことを痛感させられます。