「それは自分らしくないから」と言って、何かにチャレンジしたり、踏み込んだりする機会を逃すとしたらイヤだなあ、と思います。
もちろん、自分なりの「規範」や「モラル」、さらには「スタイル」ということはあってもいいと思いますが、そういうのも、あまり拘ると桎梏とはいわないまでも、自分の自分に対する束縛みたいになってしまうのでは?と思います。
だって、誰でも、いろいろやってみたいんじゃないでしょうかねえ?少なくとも子どもの時はそうでしょう?
それなのに、大人になると自分のやることって絞り込まれて言ってしまう・・・むしろ、専門分野のエキスパートを目指しちゃったりして・・・。
もちろん、私にも、どこかしら自分が何かのエキスパートになる、専門性・技術・スキルみたいなものを身につけたい、という欲求もあります。刑事弁護を極めたいとか、ブルースギターを突き詰めたいとか、ね。・・・なんなんでしょうねえ・・・?
ところで、マルクスさんとエンゲルスさんは次のように言ってます。
「労働が分業として配分されはじめるようになると、各人はただちに、自分におしつけられたある特定の専業の活動範囲をもつようになり、そこからぬけだすことはできない。
たとえば、ある人は猟師か漁夫か牧人か批判的批評家かのいずれかであって、生活の手段を失いたくないと思うならば、そうあり続けなければならない。
これに対して共産主義社会では社会が生産全般を規制しており、まさにそのことによって、私は今日これをし、明日にはあれをするということができるようになる。
気持ちのおもむくままに、朝には狩りをし、昼には魚をとり、夕べには家畜の世話をし、そして食後には批判をすることができるようになり、だからといって、猟師や漁夫や牧人あるいは批判家になるわけではない。」(『ドイツ・イデオロギー』)
ふ~ん、そうなの? それはいいねえ、僕は、「職業」に縛られたり、アイデンティティを持ったり、ましてや「言い訳」にはしたくないから♪ でもって、いろいろやりたいこと思いつくままにやってみたいしさ♪・・・と思う人もそれなりにいるのではないですかね。
いずれにせよ、何かと「警官だから」「サラリーマンなので」「公務員だし」と自己規定による自己規制を強いられたり、許容したりしている日々・・・。
資本主義もどうやら末期だし、前倒しで、仕事したり、ギター弾いたり、デモに行ったり、みんなでバーベキューやったり、本読んだり、議論したり、お酒飲んだり・・・やりたいことしたいものですね!