素晴らしい論説で時代を切る白井聡さんは、『永続敗戦論』の前に、2冊、革命家レーニンの本を書かれています。いずれもとても刺激的な本(『未完のレーニン』『「物質」の蜂起をめざして レーニン、〈力〉の思想』)です。
この夏の戦争法案をめぐる政府・資本と私たちの闘いの過程において、様々なものがあぶり出され、思想的な分岐、つまり、私たちの中の現時点での発想の違い、もっと言えば、かなり露骨な差別と偏見の思想が浮き彫りにされてきた印象です。恐ろしいことではありますが、曖昧なものがくっきり姿を表していくこと自体は、未来のために良いことだと思っています。
白井さんのレーニンに関する2冊目の本について、この差別と偏見、具体的には資本主義国家制社会の時代(現代)における排外主義=国籍と社会主義・革命思想に対する排外についてのわかりやすい展開がなされています。いわば、暴力から生まれ、暴力を排除しつつ、より巨大な暴力(戦争)を招いた民主主義について。
「福田歓一はパリコミューン(1871年)の壊滅について次のように述べている。
この時期は世界史の上で非常に大きな画期をなしていたということができます。ひとつには、近代民主主義を作り出した人民武装、民兵制の限界という問題があります。(中略)パリ・コミューンがつぶされたというのは、それまで民主主義と不可分であり、人民の権力の最後の保障であった人民武装・国民武装というものが無意味となった実例を残したわけであります。それと言うのもの、権力の側のもっている軍事力が民衆の持っている武装に対して圧倒的に優勢になる。武器が進歩して、ちょうど中世の騎士の槍一筋が絶対王政の鉄砲に対して無力になったように人民の武装も正規軍の兵器の前に無力となってきたことを示したのでありまして、民主主義を人民武装が保障するという伝統がすっかり色あせてしまった。そこで権力の濫用に対して武装して立ち上がるということのかわりに、それはあきらめて、既成の機構のなかで民衆の声を大きくしていくということが始まりました。
・・・さて、われわれがここで問うてみるべきは、この暴力の封じ込め戦略がいかなる状況をもたらすのかという問題である。マックス・ウェーバーが『職業としての政治』で言ったように、近代の主権国家とは、ある一定の領域内での正統的暴力の独占体である。それは、国家以外の主体の行使する暴力を脱正統化し、必要なときには実力によってそれを無効化する。言い換えれば、それは自己以外の暴力の徹底的な封じ込めを行なう。かくして「正常な」状態においては、政治的闘争は建前上、非暴力的手段によってのみ遂行される社会が、登場することになる。・・・近代デモクラシーの起源においては、人民の武装こそがデモクラシーを打ち建て、それを維持するための要であったにもかかわらず、デモクラシーの現代的位相においては、その排除こそが逆に要となるのである。
・・・しかしながら、「国民国家内の暴力」が飼い馴らされ、封じ込めが進行したにもかかわらず、20世紀こそは、人類史に突筆されるべき大戦争・大量殺戮の時代、最も暴力的な時代であった。特にその前半において猛威を揮うことになったのは、「国民国家内の暴力」に代わる「国民国家による暴力」であった。
・・・しばしば言われるように、国民国家とは、住民の多様な階級、階層、アイデンティティがあたかもひとつの国家において統合され、全住民が均質な存在(=国民)として共同体を構成しているかのように感じさせる「想像の共同体」である。均質な国民であればこそ、全住民は戦争に際して無条件の運命共同体として現れることとなる。
・・・近代国家が革命的マルクス主義の思想・運動を忌み嫌い、それを抑圧したのは当然のことであった。なぜならそれは、暴力の独占に対しては暴力革命の可能性を追求し、均質化の戦略に対しては階級闘争の教義によって、均質化が想像上のものにすぎないことを訴え続けるからである。」
まさに、今、私は、国家主義による暴力の独占と均質化に抗して自由を獲得するための思想への弾圧の時代に中にいることを強く感じます。
自由とは、発想において限定を取り除き、また、自己の中の偏見を見つめ、飛躍を勝ち取ることだと思います。
法律実務家の発想としても、知らないものに対しては、最低限、判断しない、つまり、知らないまま評価する=偏見を持たないことが要求されている、というのが、事実誤認を避けるイロハだと思います。
故にマルクスやレーニン(トロツキーやゲバラでもカストロでもいいですが)の本を全く読んだこともなしに、社会主義・共産主義についての評価・判断はできない、と思いますが、排外主義の時代は、多くの偏見と差別を植え付け、人々を閉じた思考に導くことに必死です。
内なる偏見と差別を乗り越えて、もっと自由になりましょう!