戦争法案反対の人々の声が、国会前に結集し、それにビビった政府は、警察を利用してガチガチの過剰な警備を構えました。つまり、戦争という巨大な暴力のための法を成立させようとしている国会を、「私たちから」守るために、国家の暴力装置を配置する、ということです。まさに、民主主義ってなんだ?というべき「転倒」した状態でしょう。戦争という暴力を推し進めるための政府を私たちから守るなんて!
さらには、実際に警察官らは実際、暴力を行使して、16日の夜には、次から次へ、抗議の声をあげる20代の若者から70代の人々13名を逮捕・監禁しました。結局は、全員釈放(9/25)。つまり、逮捕・監禁(勾留)に合法的な根拠のない、単なる国家の恣意的な暴力だった、ということだと思います。
一方、ネットを見てると、国家前で抗議の声をあげる若者たちに暴力を行使する「民間の人々」もいます。ビラまきを止めるために問答無用に妨害する人、さらには警察を利用とするなどの光景です。
国会前の主催者の「思想・イデオロギー」が、国会前に集まった人々を既定しているとはもちろん思いませんが、主催者自体はあくまで「非暴力」を標榜しているようでした。
真偽は不明ですが、先の抗議の若者=全学連に暴力を行使する人たちは、主催者側の「保護者」に位置する人々という方もいます。主催者側がそれに対し、公式にコメントをあげているか、否かは知りません。
いずれにせよ、仮に、そうだとしたら、非暴力を「建前」とし、現実には暴力を「本音」とする恥ずべきことだと思います。
高橋源一郎さんが、1967年10月8日の安保闘争のいわゆる羽田闘争において亡くなった京都大の学生山崎博昭さんについて新聞の「殺された側の学生の暴力が批判されて」いたことに「カチンときて」、高校時代に『民主主義の中の暴力』という評論を書いたこと、「権力が使う暴力の本質的な暴力性と、それに抵抗する暴力は違う。それを同じ暴力という言葉で一括りにするのはおかしい、ということを書いた」ことを述べています(『高橋源一郎×SEALDs 民主主義ってなんだ?』)。
また、先の山崎さんの死について「いやしくも、ベトナム戦争を否定する者はサイゴン政権に抗して立ち上がった学生の血まみれの姿に、それを無謀なはね上がりとはいうまい。その同じ人間が、口を揃えて、自国の学生の血まみれの姿を、暴徒と糾弾している。彼らに山崎君の死の責任がないが如くに。今更、赤旗まつりに集まった数万人が羽田で首相の前に立ったら・・・とはいうまい。せめて孤立した学生に、これ以上の警棒の雨をふらせることなく、その雨を、すべてのベトナム反戦者が引き受けよう。」(10月10日 東大ベトナム反戦会議)という声明を、山本義隆さんは紹介しています(『私の1960年代』)。
私は、「若者」の決起を含め、今般の戦争法反対の盛り上がりを当然、歓迎します、それは、これまで自分も参加してきたデモや集会の積み重ねの中から発展してきたものとして自己肯定の念も含め、未来に向かう力として、私たちの文化としても、です。いや、100年前から積み重ねられている大杉栄さんや堺利彦さんらの闘い(「赤旗事件」等)からの積み重ね、として。
暴力ってなんだ? 実際にふるいながらそれを否定するのは、まさに権力の思想です。権力は、戦争という国家的暴力を「安全保障」ないし、「自衛」と言います。
実際に、暴力を実行しながら、非暴力を標榜するのでは、権力と同じ、と言わざるを得ません。
「暴力はいけない」という権力に都合のいい、それでいて現実の暴力=戦争、警察の違法逮捕、等を野放しにする「思想」をそのまま受け入れるような「教育」と「洗脳」に自覚的であることが、いま、私たちには必要だと思います。
「非暴力」を選択できるのは、暴力も選択できるとき、のみであり、暴力が違法として奪われているときは、「非暴力」は単に権力から強いられている、にすぎない、そのことを自覚したいと思います。