別に「思想家」ではないけれども・・・ | 御苑のベンゴシ 森川文人のブログ

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 自由な思想、行動といいますけど、実践は難しいのだと思います。「自由」というのは、ほぼ「はみ出す」ということと同義だから・・・。思想一つをとっても、「常識」からはみ出さなければ「自由」とはいえないでしょう。だから、皆はさして「自由」は求められていないのでは?とさえ、思うときがあります。

 「新らしい思想と云うものは、之を在来思想から見れば常に危険であらねばならぬ、それは新思想は、旧思想に対する反抗若しくは破壊であるからである、それで新旧両思想の何れかが勝つか負くるかは、つまり何れの思想が人間本然の性情に適合するか否やによりて定まるので、之は社会進化論の是認してきた法則である、されば思想自体から云へば危険と云ふものはない訳である、平沼検事は、茲の道理を閉却せられたのではあるまいか、社会主義は危険だ、無政府主義は恐るべしと一概に論断されるけれど、日本の社会主義、日本の無政府主義が何程の危険を含んで居ると云ふのか、又何程の実行を其信条としたと云ふのか、その点に論及して居らぬ」

 これは、平出修弁護士の大逆事件での弁論です(『大逆事件 死と生の群像』田中伸尚)。1910年、100年以上前のことです。・・・今もあまり変わっていない・・・そんなに進んではいないですねえ。

 「暴力はいけない」とか「国家は存在する」とか「民主主義は正しい」とか「どうしたって資本主義の枠内で解決するしかない」とか・・・そういう、いわば、支配のために植えつけられた「ドグマ」を根本から疑って考えるところから「自由」は始まると思います。

 「自由」に考えるとは、そういうことをラディカル=根源的なところから考えることに挑戦する姿勢を指すのではないか、と思います。

 
 ところがだんだん・・・というか100年経ってもいまだに・・・自由な思想=オルタナティブが排除されていると感じます。
 皆が、意識的/無意識的に「常識」の枠内=体制内の思想しか認めていない・・・そんな感じです。

 日々、自分の命令された使命とか職業の枠の中で黙々と「真面目に生きる」の延長に、兵隊として殺し合いを行う、という戦争の現実があると思います、「だってそれが命令だし、それが仕事じゃん」・・・

 この発想から抜け出す、突破しなければ「自由」はないでしょう。
 そういう「体制外思想」・・・つまり、この世界の「常識」的なあり方にラディカルなオルタナティブ示す思想は、平出弁護士が指摘するように時の体制から「攻撃」=排除されるのは当然ですが、民衆側の中には根強く、その思想の自由を拡大していく必要があると思います。

 大逆事件の判決ののち、当時の第一高等学校(現・東京大学)で徳富蘆花は学生の依頼に応じて、
 「諸君、幸徳君らは時の政府に謀叛人と看做されて殺された。諸君、謀叛を恐れてはならぬ。謀叛人を恐れてはならぬ。自ら謀叛人となることを恐れてはならぬ。新しいものは常に謀叛である。」「我らは生きねばならぬ。生きるために謀叛しなければならぬ」と講演したそうです。
 当時の一高には細川嘉六、田中耕太郎、河合栄治郎、芥川龍之介、山本有三、近衛文磨が在籍していました、どう受け止めたのか(前掲書)。(新渡戸稲造校長は文部省に呼び出され、譴責処分。)

 100年前から民衆の中に存在する自由な思想への渇望とそれを留めるためには何でもする権力。
 
 自由を我らに!謀叛を我らに!やりたいこと、言いたいことを実現しましょう!