資本主義とは無責任? 法人化する個人 | 御苑のベンゴシ 森川文人のブログ

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 人格があるけれど、生きていない、よく実態がわからない存在は何でしょう?おばけ?ゾンビ?まあ、そんなようなものですが、ここでの答えは「法人」です。

 『新自由主義』でデヴィッド・ハーヴェイは、新自由主義の主要なトリックとして法人と個人を同列化する「法律」ということを指摘していたと思います。圧倒的な資本を有する法人も、生活保護を受ける自然人も、単位としては「平等」に扱う「資本主義」時代の法的制度についてです。

 また、チョムスキーの本でも2011年のオキュバイ・ウォールストリートの運動のその後の発展が「法人制度の廃止」を訴えているというのを読んだ気がします。

 法人という法制度?仕組み?トリック?・・・いずれにせよ、自然人ではないものにフランケンシュタインのように「人格」を与えるというアイデアはオランダの東インド会社あたりから始まったようです。
 
 株式会社という「有限責任」制度、つまりは、責任の範囲を限定し、いわば事態に対する「無責任」の領域を肯定し、設定するという画期的な制度の「発明」と資本主義の発展が結びついているという説がありますが、たしかに、そういう側面はあるでしょう。

 つまり「無責任」である、というのが資本主義の発展の大きな契機の一つであり、本質の一つである、ということです。

 なんだか恐ろしいですね。たしかに法人=会社であれば、例えば倒産すれば、どんなに負債があっても、それはそれで終わり。責任はそこまでです。「倒産って法人の死なんだから仕方ないんじゃないの」という意見もありそうですが、倒産なんて「方法」ないしは「手段」もしくは「仕組み」ですし、自然人の死とは全く違うというのが実務法律家としての感覚です。

 法人という発明により、ある人格的存在は責任が限定的であり得る、という「倫理」は、あらゆる組織、団体、さらには国家にまで拡がっていると思います。その法人に属する自然人=従業員、サラリーマン、官僚その他も「これは自分の仕事ですから」という形で、責任の限定化が図られます。

 結局、この法人の有限責任、という発想が、個人にまで普及したのが資本主義の歴史、といえるのではないでしょうか。つまり、個人の法人化、です。

 会社があるのが当たり前、というのは資本主義時代の「常識」でしょうけど、人類の歴史の常識ではないでしょう、イレギュラーな「仕組み」です。

 それなのに、資本主義時代の戦争は、この法人の利益のための戦争に終始しています。もちろん、国の名を背負って行いますが、実態は、巨大法人の利益のための侵略戦争です。変な話だなあ。裸の王様ではないけれど、「そんな奴、いないじゃん?そいつのために死ぬのはおかしいよ」と言ってしまえばいいのではないか、と思います。