少なくとも私の弁護士像としては、時に「アウェー」に立つ仕事、ということになります。
「弁護」というのは、権力やマスコミや世間から「お前はダメだ、悪だ」と言われていても、彼の立場に立つ仕事、ということです。いつもではないにしても。
まず、突如、「無罪」を主張するときの刑事法廷は、ホントにアウェー感たっぷり。裁判官、検察官はもちろん、書記官まで、(え~、こいつ本気かよ、無理じゃね?ポーズだろ?)という空気で充満されます。
勾留理由開示の裁判所。憲法にも規定されているにもかかわらず、裁判官はただただ検察のいいなりで、勾留の理由なんてシナリオを読むだけ。弁護人として裁判官を問いつめれば、裁判官は暴力を使って排除(退廷・監置)するだけ。ここでは、ホントにアウェー(つまり裁判所の外)に持ってかれそうですが、やるべきことはやるのが弁護士、ふんばりどころ。
それから、家裁の調停。ともかく、手際良く説得するのが調停委員。譲歩と妥協を強いるのが彼らの立場なので、矢面に立ち毅然とした態度で嫌われてこそ弁護士。(めんどくさい奴だなあ)と思われて、ってことで、ここでもアウェーに立たされます。
・・・さらには、これは弁護士だからではないけれども、最近の公立小学校や中学校での入学式や卒業式。姑息にもまず、なんかの行事で起立させ、そのまま君が代斉唱に持ち込もうという「組み立て」。親として出席しても、歌いたくない場合は、積極的に着席しないとならない。これも、アウェー感たっぷり。
・・・ということで、何かとアウェーに立たざる得ない局面があるのですが、そこに大事な何かがあるのではないかなあと思うのです。アウェーに立ってこそ、というか。
本日も、国外退去強制取消訴訟の法廷、裁判官とあ~だ、こ~だとやり合いになりました。しかし、弁論終結。自分としては、もっとシツコく、もっと鬱陶しく、もっと、依頼者の外国人のために頑張ればよかったとちょっと反省・・。
なので、さら粘る手を考え、さらにやるべきことをやろうと思いますが、ある程度、アウェーだなあ、と自分を追い込む局面があってこその「やりがい」だとは思うのです、闘ってこそ、というか。
アウェーを楽しむ、そういう局面にあえて身を置くことをよしとする、そういう感覚が必要だなあと思います。そうじゃないと仕事をしたことにならないとさえ思います。
時代全体が、キナ臭く、小数派でもないのに、言いたいこと、そして、言うべきことを言う人はアウェーに追い込まれがちな気がします。まあ、労組や弁護士会すべてアウェーに追い込むのが新自由主義ですが・・・。
それでも、アウェーを楽しみましょう。むしろ、そこを通るからこそ勝つのだから、と。みんなでアウェーに行けば、そこはもうアウェーじゃないしね♪ アウェーから思いっきり反撃しましょう!
