お盆 宗教的心情 | 御苑のベンゴシ 森川文人のブログ

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 私は、父が亡くなったときは、いわゆる葬式はやりませんでしたが、墓参りには行きますし、実家の仏壇に線香も上げます。これは宗教的な行為かと言えば、その通りだと思います。
 
 宗教の定義自体、何十通りもあるとのことですが、判例だと「超人間的・自然的存在を確信し、畏敬崇拝する心情及び行為」が一つの基準でしょうか。この基準に照らしても「死者」に人格を認め、存在を確信するのは、やはり超人間的なものに対する確信ではないかと思います。
 
 ちなみに、かつて修習生の時、死体解剖に立ち会った時、ご老人の焼死体と暴力団幹部でピストルの弾丸が身体に入った「死体」でしたが、一日目は、耐えられませんでした。そのとき、何故かと考えたのですが、やはり「死体」を「人格」のある「死者」と捉えていたからで、そうわかった翌日は、「死体」を死体=物体として認識することにより平気で立ち会うことも出来ました。

 ということで、私の行う墓参り、線香をあげるなどは、やはり、宗教的行為なのでしょうね。別に、それを否定する必要はないし、戦前の国家神道みたいに宗教ではない、と言い張るつもりもありません。死んだ父に人格を認識し心の中で語りかけてしまいます。

 義父が亡くなったときも、一緒に一晩葬儀場に泊まり、私は先に寝て、ふすまの向こうで、妻や義母たちが線香を絶やさず、かつ、打ち合わせをしていたのですが、途中から男性の声が混じって聞こえてきました。最初、違和感があったのですが、「ああ、几帳面な義父が打ち合わせに参加しにきたんだなあ」と勝手に納得して安心して寝てしまいました。

 ということで、私も、必ずしも「合理的」なことばかり信じているわけじゃないなあ、と自覚します。アニミズム的な、トトロ的な自然の中の神的なものとか、感じちゃいますしね。いいのかな、俺?

 むしろ、自分の信じているもの、行っていることの意味を認識する、ということは大事だと思います。「科学」と言われていること、時の「権威」や「メディア」が言っていることをそのまま信じることの方が、ある意味、「宗教的」かもしれません。

 ちなみに父は、夢にも時々出てきますが、生前同様、特に会話はなかったりします。ただただ「気配」を感じさせるだけ。それでも、墓参りにはウイスキー小瓶を持って行ったりします。 
           皆さんは、魂とか信じますか?