[今 此(これ)を]案ずるに経文の如(ごと)く申さんとすれば をびたゞ(夥)しき様なり。人 もち(用)ゐん事も かた(難)し。此を信ぜじと思へば如来の金言を疑ふ失(とが)は経文明らかに阿鼻地獄(あびじごく)の業(ごう)と見へぬ。進退わづらひ有り、何(いか)がせん。此の法門を教主釈尊は四十余年が間は胸の内に かく(隠)させ給(たま)ふ。さりとてはとて御年(おんとし)七十二と申せしに、南閻浮提(なんえんぶだい)の中天竺(なかてんじく)、王舎城(おうしゃじょう)の丑寅(うしとら)耆闍崛山(ぎしゃくっせん)にして説かせ給ひき。
(平成新編0950・御書全集1378・正宗聖典----・昭和新定[2]1430~1431・昭和定本[2]1139~1140)
[建治02(1276)年02月17日(佐後)]
[真跡・京都妙覚寺外一ヶ所(10%未満現存)]
[※sasameyuki※]