如来在世に前の四十年余には大小を説くと雖(いえど)も説時未至(せつじ みし)の故(ゆえ)に本懐(ほんがい)を演(の)べたまはず。機(き)有りと雖も時(じ)無ければ大法を説きたま(給)はず。霊山(りょうぜん)八年の間 誰(たれ)か機に不(あら)ざるも、時来たる故に本懐を演べたまふに権機(ごんき)移りて実機(じつき)と成(な)る。法華経の流通(るつう)並びに涅槃経には、実教を前とし権教を後とすべきの由(よし)見えたり。在世には実を隠して権を前にす、滅後には実を前として権を後と為(な)すべし。道理顕然(けんねん)なり。
(平成新編0318・御書全集0109~0110・正宗聖典ーーーー・昭和新定[1]0494・昭和定本[1]0317~0318)
[文永01(1264)年09月22日(佐前)]
[真跡、古写本・無]
[※sasameyuki※]