然(しか)るに此(こ)の理(ことわり)をいるかせ(忽諸)にして余経にひと(等)しむるは、謗法の至(いた)り、大罪の至極(しごく)なり。譬(たと)へを取るに物なし。仏の神変(じんぺん)にても何(なん)ぞ是(これ)を説き尽くさん。菩薩の智力にても争(いか)でか是を量(はか)るべき。されば譬喩品(ひゆほん)に云(い)はく「若(も)し其(そ)の罪を説かば、劫(こう)を窮(きわ)むとも尽(つ)きじ」と云へり。文(もん)の心は法華経を一度(ひとたび)もそむ(背)ける人の罪をば、劫を窮むとも説き尽くし難(がた)しと見へたり。然(しか)る間、三世の諸仏の化導(けどう)にもも(漏)れ、恒沙(ごうじゃ)の如来の法門にも捨てられ、冥(くら)きより冥きに入(い)りて阿鼻大城(あびだいじょう)の苦患(くげん)争(いか)でか免(まぬか)れん。誰(たれ)か心あらん人長劫の悲しみを恐れざらんや。
(平成新編0297・御書全集0465・正宗聖典----・昭和新定[1]0463・昭和定本[1]0281)
[弘長03(1263)年(佐前)]
[真跡、古写本・無]
[※sasameyuki※]