一切は現証には如(し)かず。善無畏(ぜんむい)・一行が横難横死(おうなんおうし)、弘法・慈覚が死去の有り様、実(げ)に正法(しょうぼう)の行者是(か)くの如(ごと)くに有るべく候(そうろう)や。観仏相海経(かんぶつそうかいきょう)等の諸経並びに竜樹菩薩の論文如何(いかん)が候や。一行禅師の筆受の妄語(もうご)、善無畏のたばかり、弘法の戯論(けろん)、慈覚の理同事勝、曇鸞(どんらん)・道綽(どうしゃく)が余行非機、是くの如きの人々の所見は、権経権宗の虚妄(こもう)の仏法の習ひにてや候らん。それほどに浦山敷(うらやまし)くもなき死去にて候ぞやと、和(やわ)らかに又強く、両眼を細めに見、顔貌(かんばせ)に色を調(ととの)へて閑(しず)かに言上(ごんじょう)すべし。
(平成新編1106~1107・御書全集1279~1280・正宗聖典ーーーー・昭和新定[2]1161・昭和定本[2]1484)
[建治03(1277)年03月21日"文永12(1275)03月21日""弘安01(1278)年03月21日"(佐後)]
[真跡、古写本・無]
[※sasameyuki※]