尤(もっと)も天台法華の法門は教相を以て諸仏の御本意を宣(の)べられたり。若(も)し教相に闇(くら)くして法華の法門をい(云)へば「法華経を讃(ほ)むと雖(いえど)も、還(かえ)って法華の心を死(ころ)す」とて、法華の心を殺すと云(い)ふ事にて候(そうろう)。其(そ)の上「若し余経(よきょう)を弘(ひろ)むるに教相を明(あき)らめざるも義に於(おい)て傷(やぶ)るゝこと無し。若し法華を弘むるに教相を明らめざれば、文義(もんぎ)欠(か)くること有り」と釈(しゃく)せられて、殊更(ことさら)教相を本(もと)として天台の法門は建立(こんりゅう)せられ候。仰(おお)せられ候如(ごと)く、次第(しだい)も無く偏円(へんえん)も簡(えら)ばず邪正(じゃしょう)も選ばず、法門申(もう)さん物をば信受せざれと天台堅(かた)く誡(いまし)められ候なり。是程(これほど)に知(し)ろし食(め)されず候(そうら)ひけるに、中々(なかなか)天台の御釈(おんしゃく)を引かれ候(そうろう)事浅猿(あさまし)き御事(おんこと)なりと責(せ)むべきなり。
(平成新編0031・御書全集0375~0376・正宗聖典ーーーー・昭和新定[1]0106・昭和定本[1]0023)
[建長07(1255)年(佐前)]
[古写本・日代筆 西山本門寺]
[※sasameyuki※]