上(かみ)の二つの法門は仏説にては候(そうら)へども心え(得)られぬ事なり。争(いか)でか仏を供養し奉(たてまつ)るよりも凡夫を供養するがまさ(勝)るべきや。而(しか)れども此(これ)を妄語(もうご)とい(云)はんとすれば釈迦如来の金言を疑(うたが)ひ、多宝仏の証明(しょうみょう)を軽(かろ)しめ、十方諸仏の舌相(ぜっそう)をやぶ(破)るになりぬべし。若(も)し爾(しか)らば現身に阿鼻地獄に堕(お)つべし。巌石(がんせき)にのぼりてあら(荒)馬を走らするが如(ごと)し。心肝(しんかん)しづ(静)かならず。又(また)信ぜば妙覚(みょうがく)の仏にもな(成)りぬべし。
(平成新編0813~0814・御書全集1044~1045・正宗聖典ーーーー・昭和新定[2]1196・昭和定本[1]0941)
[建治01(1275)年04月(佐後)]
[真跡・京都本圀寺外三ヶ所(10%未満現存) 身延曾存]
[※sasameyuki※]