問(と)うて云(い)はく、経に「難解難入(なんげなんにゅう)」と云へり。世間の人此(こ)の文(もん)を引(ひ)きて、法華経は機(き)に叶(かな)はずと申し候(そうろう)は、道理と覚(おぼ)え候は如何(いかん)。答(こた)へて云はく、謂(いわ)れな(無)き事なり。其(そ)の故(ゆえ)は此の経を能(よ)くも心え(得)ぬ人の云ふ事なり。法華より已前(いぜん)の経は解(さと)り難(がた)く入(い)り難し、法華の座(ざ)に来(き)たりては解り易(やす)く入り易しと云ふ事なり。されば妙楽大師の御釈(おんしゃく)に云はく「法華已前は不了義なるが故に、故に難解と云ふ。即(すなわ)ち今の教には咸(ことごと)く皆(みな)実(じつ)に入るを指(さ)す。故に易知(いち)と云ふ」文(もん)。此の文の心は、法華より已前の経にては機つたな(拙)くして解り難く入り難し、今の経に来たりては機賢(かしこ)く成(な)りて解り易く入り易しと釈し給(たま)へり。其の上難解難入と説(と)かれたる経が機に叶はずば、先(ま)づ念仏を捨てさせ給ふべきなり。其の故は双観経に「難(かた)きが中の難き、此の難きに過(す)ぎたるは無し」と説き、阿弥陀経には「難信の法」と云へり。文の心は、此の経を受け持(たも)たん事は難きが中の難きなり、此(これ)に過ぎたる難きはなし、難信の法なりと見(み)えたり。
(平成新編1318・御書全集0554~0555・正宗聖典----・昭和新定[2]1643・昭和定本[2]1429~1430)
[弘安01(1278)年"建治03(1277)年03月""建治03(1277)年"(佐後)]
[真跡、古写本・無]
[※sasameyuki※]