問(と)ふ、夫(それ)諸仏の慈悲は天月(てんげつ)の如(ごと)し。機縁の水澄(す)めば利生(りしょう)の影を普(あまね)く万機(ばんき)の水に移し給(たま)ふべき処(ところ)に、正像末(しょうぞうまつ)の三時の中に末法に限ると説き給ふは、教主釈尊の慈悲に於(おい)て偏頗(へんぱ)あるに似(に)たり、如何(いかん)。答(こた)ふ、諸仏の和光利物(りもつ)の月影は九法界の闇(やみ)を照(て)らすと雖(いえど)も、謗法(ほうぼう)一闡提(いっせんだい)の濁水(じょくすい)には影を移さず。正法(しょうぼう)一千年の機の前には唯(ただ)小乗・権大乗(ごんだいじょう)相(あい)叶(かな)へり。像法一千年には法華経の迹門(しゃくもん)機感相応(そうおう)せり。末法の始めの五百年には法華経の本門前後十三品(じゅうさんぼん)を置(お)きて、只(ただ)寿量の一品(いっぽん)を弘通(ぐつう)すべき時なり。機法相応せり。今此(こ)の本門寿量の一品は像法の後の五百歳、機尚(なお)堪(た)へず。況(いわ)んや始めの五百年をや。何(いか)に況んや正法の機は迹門すら尚日(ひ)浅し、増(ま)して本門をや。末法に入(い)って爾前(にぜん)・迹門は全(まった)く出離生死(しゅつりしょうじ)の法にあら(非)ず。但(ただ)専(もっぱ)ら本門寿量の一品のみに限りて出離生死の要法(ようぼう)なり。是(これ)を以(もっ)て思ふに、諸仏の化導(けどう)に於て全く偏頗無し等云云。
(平成新編1593~1594・御書全集1021~1022・正宗聖典0301・昭和新定[3]2281~2282・昭和定本[2]1863)
[弘安05(1282)年04月08日"弘安04(1281)年04月08日"(佐後)]
[古写本・日時筆 富士大石寺、日親筆 京都本法寺]
[秘・日蓮が己心に秘す法門]
[※sasameyuki※]