愚人(ぐにん)云(い)はく、聖人(しょうにん)の言の如(ごと)くば実に首題(しゅだい)の功(こう)莫大(ばくだい)なり。但(ただし)知ると知らざるとの不同あり。我は弓箭(きゅうせん)に携(たずさ)はり、兵杖をむね(旨)として未(いま)だ仏法の真味を知らず。若(も)し然(しか)れば得る所の功徳(くどく)何(なん)ぞ其(そ)れ深(ふか)からんや。聖人云はく、円頓(えんどん)の教理(きょうり)は初後全(まった)く不二(ふに)にして初位に後位の徳あり。一行一切行にして功徳備(そな)はらざるは之(これ)無し。若し汝(なんじ)が言の如くば、功徳を知って植(う)ゑずんば、上は等覚(とうがく)より下は名字(みょうじ)に至(いた)るまで得益(とくやく)更(さら)にあるべからず。今の経は唯仏与仏と談(だん)ずるが故(ゆえ)なり。譬喩品(ひゆほん)に云はく「汝舎利弗(しゃりほつ)尚(なお)此(こ)の経に於(おい)ては信(しん)を以(もっ)て入(い)ることを得(え)たり。況(いわ)んや余(よ)の声聞(しょうもん)をや」と。文(もん)の心は大智(だいち)舎利弗も法華経には信を以て入る、其(そ)の智分(ちぶん)の力にはあら(非)ず。況んや自余(じよ)の声聞をやとなり。されば法華経に来(き)たって信(しん)ぜしかば、永不成仏(ようふじょうぶつ)の名を削(けず)りて華光如来(けこうにょらい)となり。
(平成新編0407・御書全集0499・正宗聖典----・昭和新定[1]0618~0619・昭和定本[1]0388~0389)
["文永05(1268)年""文永02(1265)年"(佐前)]
[真跡、古写本・無]
[※sasameyuki※]