仏語むな(虚)しからざれば三類の怨敵(おんてき)すで(既)に国中(くにじゅう)に充満(じゅうまん)せり。金言(きんげん)のやぶるべきかのゆへ(故)に法華経の行者なし。いかんがせんいかんがせん。抑(そもそも)、たれ(誰)やの人か衆俗に悪口罵詈(あっくめり)せらるゝ。誰の僧か刀杖を加へらるゝ。誰の僧をか法華経のゆへに公家・武家に奏(そう)する。誰の僧か数々見擯出(さくさくけんひんずい)と度々(たびたび)なが(流)さるゝ。日蓮より外(ほか)に日本国に取り出(い)ださんとするに人なし。日蓮は法華経の行者にあら(非)ず、天これをす(捨)て給(たま)ふゆへに。誰をか当世の法華経の行者として仏語を実語とせん。仏と提婆(だいば)とは身と影とのごとし、生々にはな(離)れず。聖徳太子と守屋とは蓮華の花菓(けか)、同時なるがごとし。法華経の行者あらば必ず三類の怨敵あるべし。三類はすでにあり、法華経の行者は誰なるらむ。求めて師とすべし。一眼の亀の浮木(ふぼく)に値(あ)ふなるべし。
(平成新編0570・御書全集0230・正宗聖典0131・昭和新定[1]0822~0823・昭和定本[1]0598~0599)
[文永09(1272)年02月(佐後)]
[真跡・身延曾存]
[※sasameyuki※]