疑(うたが)って云(い)はく、法華経の行者(ぎょうじゃ)をあだむ者は頭破作七分(ずはさしちぶん)とと(説)かれて候(そうろう)に、日蓮房をそし(謗)れども頭(こうべ)もわ(割)れぬは、日蓮房は法華経の行者にはあら(非)ざるかと申すは、道理なりとをぼへ候はいかん(如何)。答(こた)へて云はく、日蓮を法華経の行者にてな(無)しと申さば、法華経をなげすてよとか(書)ける法然等、無明(むみょう)の辺域(へんいき)としる(記)せる弘法大師、理同事勝(りどうじしょう)と宣(の)べたる善無畏(ぜんむい)・慈覚(じかく)等が法華経の行者にてあるべきか。又(また)頭破作七分と申す事はいかなる事ぞ。刀をも(以)てき(切)るやう(様)にわ(割)るゝとし(知)れるか。経文には如阿梨樹枝(にょありじゅし)とこそと(説)かれたれ。人の頭に七滴(てき)あり、七鬼神ありて一滴食(く)らへば頭をいたむ、三滴食らへば寿(いのち)絶(た)えんとす、七滴皆(みな)食らへば死するなり。今の世の人々は皆頭(こうべ)阿梨樹の枝(えだ)のごとくにわれたれども、悪業(あくごう)ふか(深)くしてし(知)らざるなり。例(れい)せばてを(手負)いたる人の、或(あるい)は酒にゑ(酔)ひ、或はねい(寝入)りぬれば、をぼ(覚)えざるが如(ごと)し。又(また)頭破作七分と申すは或は心破作七分(しんはさしちぶん)とも申して、頂(いただき)の皮の底にある骨のひゞたふ(響破)るなり。死ぬる時はわ(割)るゝ事もあり。今の世の人々は去(い)ぬる正嘉(しょうか)の大地震、文永の大彗星(だいすいせい)に皆頭われて候なり。其(そ)の頭のわれし時ぜひぜひ(喘息)や(病)み、五臓の損(そん)ぜし時あかき(赤痢)腹をやみしなり。これは法華経の行者をそし(謗)りしゆへ(故)にあ(当)たりし罰(ばち)とはし(知)らずや。
(平成新編1071・御書全集0924~0925・正宗聖典----・昭和新定[2]1597~1598・昭和定本[2]0984~0985)
[建治02(1276)年"建治01(1275)年"(佐後)]
[真跡・身延曾存]
[※sasameyuki※]