此(こ)の方便品と申すは迹門(しゃくもん)の肝心(かんじん)なり。此の品には仏、十如(じゅうにょ)実相(じっそう)の法門を説きて十界の衆生の成仏を明(あ)かし給へば、舎利弗(しゃりほつ)等は此(これ)を聞きて無明(むみょう)の惑を断(だん)じ真因の位に叶(かな)ふのみならず、未来華光如来(けこうにょらい)と成りて、成仏の覚月(かくげつ)を離垢世界(りくせかい)の暁(あかつき)の空に詠(えい)ぜり。十界の衆生の成仏の始めは是(これ)なり。当時の念仏者・真言師の人々、成仏は我が依経(えきょう)に限れりと深く執(しゅう)するは、此等(これら)の法門を習学せずして、未顕真実(みけんしんじつ)の経に説く所の名字(みょうじ)計(ばか)りなる授記(じゅき)を執する故なり。貴辺(きへん)は日来(ひごろ)は此等の法門に迷ひ給ひしかども、日蓮が法門を聞きて、賢者なれば本執を忽(たちま)ちに翻(ひるがえ)し給ひて、法華経を持(たも)ち給ふのみならず、結句(けっく)は身命(しんみょう)よりも此の経を大事と思(おぼ)し食(め)す事、不思議が中の不思議なり。是(これ)は偏(ひとえ)に今の事に非(あら)ず。過去の宿縁(しゅくえん)開発せるにこそ、かくは思し食すらめ。有(あ)り難(がた)し有り難し。
(平成新編1223・御書全集1015~1016・正宗聖典----・昭和新定[2]1821・昭和定本[2]1497)
[弘安01(1278)年04月23日(佐後)]
[真跡、古写本・無]
[※sasameyuki※]