女人は水のごと(如)し、うつは(器)物にしたがう。女人は矢のごとし、弓につが(番)はさる。女人はふね(舟)のごとし、かぢ(楫)のまかするによるべし。しかるに女人はをとこ(夫)ぬす(盗)人なれば女人ぬす人となる。をとこ王なれば女人きさき(后)となる。をとこ善人なれば女人仏になる。今生のみならず、後生もをとこによるなり。しかるに兵衛(ひょうえ)のさゑもんどの(左衛門殿)は法華経の行者なり。たとひいかなる事ありとも、をとこのめ(妻)なれば、法華経の女人とこそ仏はし(知)ろしめされて候らんに、又我とこゝろ(心)をを(発)こして、法華経の御ため(為)に御かたびら(帷)ををく(贈)りた(給)びて候。
法華経の行者に二人(ににん)あり。聖人(しょうにん)は皮をは(剥)いで文字をうつ(写)す。凡夫はたゞ(唯)ひとつ(一領)き(着)て候かたびらなどを法華経の行者に供養すれば、皮をは(剥)ぐうちに仏をさ(収)めさせ給ふなり。此(こ)の人のかたびらは法華経の六万九千三百八十四の文字の仏にまい(進)らせさせ給ひぬれば、六万九千三百八十四のかたびらなり。又六万九千三百八十四の仏、一々(いちいち)六万九千三百八十四の文字なれば、此のかたびらも又かくのごとし。たと(譬)へばはる(春)の野の千里(せんり)ばかりにくさ(草)のみ(充)ちて候はんに、すこ(少)しきの豆ばかりの火をくさ(草)ひとつにはな(放)ちたれば、一時に無量無辺の火となる。このかたびらも又かくのごとし。一つのかたびらなれども法華経の一切の文字の仏にたてまつ(奉)るべし。この功徳は父母・祖父母乃至(ないし)無辺の衆生にもをよ(及)ぼしてん。まして我(わ)がいとを(最愛)しとをも(思)ふをとこ(夫)ゞ(子)は申すに及ばずと、おぼ(思)しめ(食)すべし。恐々謹言。
(平成新編1125・御書全集1231・正宗聖典----・昭和新定[2]1223~1224・昭和定本[2]0997~0998)
[建治03(1277)年05月25日"建治01(1275)年05月25日"(佐後)]
[真跡(断片)・千葉多古 妙光寺(10%以上40%未満現存)]
[※sasameyuki※]