日蓮は名字即の位、弟子檀那は理即の位なり。上行所伝結要付嘱の行儀は、教観判乗皆名字即、五味の主の修行なり。故に教相の次第は要用に依るべし。唯大綱を存する時は余は綱目を事とせず。彼は綱目此は大綱、彼は綱目の教相の主、此は大綱首題の主。恐らくは日蓮の行儀には天台・伝教も及ばず。何(いか)に況んや他師の行儀に於てをや。唯在世八箇年の儀式を移して、滅後末法の行儀と為(な)す。然(しか)りと雖(いえど)も仏は熟脱の教主、某(それがし)は下種の法主なり。彼の一品二半は舎利弗等の為には観心たり、我等凡夫の為には教相たり。理即但妄の凡夫の為の観心は、余行に渡らざる南無妙法蓮華経是(これ)なり。是(か)くの如き深義を知らざる僻人(びゃくにん)出来して、予が立義は教相辺外(はずれ)と思ふべき者なり。此等は皆宿業の拙(つたな)き修因感果の至極せるなるべし。彼の天台大師には三千人の弟子有りて章安一人朗然たり。伝教大師は三千人の衆徒を置く、義真已後は其れ無きが如し。今以て是くの如し。数輩の弟子有るべしと雖も、疑心無く正義を伝ふる者は希(まれ)にして一二の小石の如し。秘すべきの法門なり。
(平成新編1680・御書全集0873~0874・正宗聖典0346~0347・昭和新定[3]2693・昭和定本[-]----)
[弘安05(1282)年10月11日(佐後)]
[古写本・日時筆 富士大石寺]
[秘・本門立行の血脈之を注す]
[※sasameyuki※]