如意宝珠(にょいほうじゅ)と云ふ玉は、五百弟子品の此の経の徳も又此(か)くの如く、観心を並べて読むは申すに及ばず。観念せずと雖(いえど)も始めに申しつるごとく「所謂諸法如是相如」云云と読む時は、如は空(くう)の義なれば我が身の先業(せんごう)にうくる所の相性体力、其の具する所の八十八使の見惑、八十一品の思惑、其れ空にして報身如来なり。「所謂諸法如是相」云云とよめば、是(これ)仮(け)の義なれば我が此の身先業に依って受けたる相性体力云云。其の具したる塵沙(じんじゃ)の惑、悉(ことごと)く即身応身如来(おうじんにょらい)なり。「所謂諸法如是」と読む時は、是中道(ちゅうどう)の義に順じて業に依って受くる所の相性等云云。其れに随(したが)ひたる無明(むみょう)皆退(しりぞ)いて即身法身の如来と心を開く。此の十如是三転によまるゝ事、三身即一身・一身即三身の義なり。三に分かるれども一なり一に定まれども三なり。
(平成新編0110~0111・御書全集0416・正宗聖典----・昭和新定[1]0224・昭和定本[3]2040)
[正嘉02(1258)年(佐前)]
[真跡、古写本・無]
[※sasameyuki※]