『四条金吾殿女房御返事』(佐後)[真跡(断片)] | 細雪の物置小屋

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[参考]『日蓮大聖人の「御書」をよむ 上 法門編』著者・小林正博
発行所・株式会社第三文明社
『日蓮大聖人の「御書」をよむ 下 御消息編』著者・河合 一
発行所・株式会社第三文明社

 所詮(しょせん)日本国の一切衆生の目をぬき神(たましい)をまど(惑)はかす邪法は真言師にはすぎず。是は且(しばら)く之(これ)を置く。十喩(じゅうゆ)は一切経と法華経との勝劣を説かせ給ふと見えたれども、仏の御心はさには候はず。一切経の行者と法華経の行者とをならべて、法華経の行者は日月等のごとし、諸経の行者は衆星灯炬(しゅしょうとうこ)のごとしと申す事を詮(せん)と思(おぼ)しめされて候。なにをもってこれをし(知)るとならば、第八の譬(たと)への下に一つの最大事の文あり。所謂(いわゆる)此(こ)の経文に云はく「能(よ)く是(こ)の経典を受持すること有らん者も亦復(またまた)是(か)くの如し。一切衆生の中に於て亦為(こ)れ第一なり」等云云。此の二十二字は一経第一の肝心(かんじん)なり、一切衆生の目なり。文の心は法華経の行者は日月・大梵王(だいぼんのう)・仏のごとし、大日経の行者は衆星・江河(こうが)・凡夫のごとしとと(説)かれて候経文なり。されば此の世の中の男女僧尼は嫌ふべからず、法華経を持(たも)たせ給ふ人は一切衆生のしう(主)とこそ仏は御らん(覧)候らめ、梵王・帝釈はあを(仰)がせ給ふらめとうれしさ申すばかりなし。又この経文を昼夜に案じ朝夕によみ候へば、常の法華経の行者にては候はぬにはん(侍)べり。「是経典者(ぜきょうてんしゃ)」とて者(しゃ)の文字はひと(人)とよ(訓)み候へば、此の世の中の比丘・比丘尼・うば(優婆)塞(そく)、うばい(優婆夷)の中に、法華経を信じまいらせ候人々かとみ(見)まいらせ候へば、さにては候はず、次下(つぎしも)の経文に、此の者(しゃ)の文字を仏かさ(重)ねてと(説)かせ給ひて候には「若有女人(にゃくうにょにん)」ととかれて候。日蓮法華経より外の一切経をみ(見)候には、女人とはなりたくも候はず、或経には女人をば地獄の使ひと定められ、或経には大蛇ととかれ、或経にはまが(曲)れ木のごとし、或経には仏の種をい(焦)れる者とこそと(説)かれて候へ。仏法のみならず外典にも栄啓期(えいけいき)と申せし者(もの)三楽をうたいし中に、無女楽(ぶじょらく)と申して天地の中に女人と生まれざる事を楽とこそたてられて候へ。わざわ(災)い三女よりを(起)これりと定められて候に、此の法華経計りに、此の経を持(たも)つ女人は一切の女人にす(過)ぎたるのみならず、一切の男子にこ(超)えたりとみへて候。せん(詮)ずるところは一切の人にそし(誹)られて候よりも、女人の御ためには、いとを(愛)しとをもわしき男に、ふびんとをも(思)われたらんにはすぎじ。一切の人はにく(悪)まばにくめ、釈迦仏・多宝仏・十方の諸仏乃至梵王(ぼんのう)・帝釈・日月等にだにも、ふびんとをもわれまいらせなば、なにくるし。法華経にだにもほめ(讃)られたてまつりなば、なにかたつまじかるべき。
(平成新編0756~0757・御書全集1134~1135・正宗聖典----・昭和新定[2]1120~1122・昭和定本[1]0855~0857)
[文永12(1275)年01月27日(佐後)]
[真跡・宮津妙円寺外五ヶ所(40%以上70%未満現存)]
[※sasameyuki※]