十字(むしもち)一百まい・かし(菓子)ひとこ(一籠)給び了(おわ)んぬ。正月の一日は日のはじめ、月の始め、とし(年)のはじめ、春の始め。此(これ)をもてなす人は月の西より東をさしてみ(満)つがごとく、日の東より西へわたりてあき(明)らかなるがごとく、とく(徳)もまさり人にもあい(愛)せられ候なり。
抑(そもそも)地獄と仏とはいづれの所に候ぞとたづね候へば、或は地の下と申す経もあり、或は西方等と申す経も候。しかれども委細にたづね候へば、我等が五尺の身の内に候とみへて候。さもやをぼ(覚)へ候事は、我等が心の内に父をあな(蔑)づり、母ををろ(疎)かにする人は地獄其の人の心の内に候。譬(たと)へば蓮のたねの中に花と菓とのみ(見)ゆるがごとし。仏と申す事も我等が心の内にをは(御座)します。譬へば石の中に火あり、珠の中に財(たから)のあるがごとし。我等凡夫はまつげ(睫)のちかきと虚空のとを(遠)きとは見候事なし。我等が心の内に仏はをは(御座)しましけるを知り候はざりけるぞ。たゞし疑ひある事は、我等は父母の精血変じて人となりて候へば、三毒の根本、淫欲の源なり。いかでか仏はわたらせ給ふべきと疑ひ候へども、又うちかへしうちかへし案じ候へば、其のゆわ(謂)れもやとをぼ(覚)へ候。蓮はきよ(清)きもの、泥よりいでたり。せんだん(栴檀)はかう(香)ばしき物、大地よりを(生)いたり。さくらはをもしろ(面白)き物、木の中よりさ(咲)きい(出)づ。やうきひ(楊貴妃)は見めよきもの、下女のはら(腹)よりむ(生)まれたり。月は山よりいでて山をてらす、わざわいは口より出(い)でて身をやぶる。さいわいは心よりいでて我をかざる。
(平成新編1551・御書全集1491~1492・正宗聖典----・昭和新定[3]2223~2224・昭和定本[2]1855~1857)
[弘安04(1281)年01月05日(佐後)]
[真跡・富士大石寺(100%現存)]
[※sasameyuki※]