夫(それ)天変は衆人をおどろ(驚)かし、地夭(ちよう)は諸人をうご(動)かす。仏、法華経をと(説)かんとし給ふ時、五瑞六瑞をげん(現)じ給ふ。其の中に地動瑞(ちどうずい)と申すは大地六種に震動す。六種と申すは天台大師文句の三に釈して云はく「東涌西没とは、東方は青、肝を主(つかさど)る、肝は眼を主る。西方は白、肺を主る、肺は鼻を主る。此(これ)眼根の功徳生じて鼻根の煩悩互ひに滅するを表すなり。鼻根の功徳生じて眼の中の煩悩互ひに滅す。余方の涌没して余根の生滅を表するも亦復(またまた)」云云。妙楽大師之(これ)を承(う)けて云はく「表根と言ふは、眼鼻已に東西を表す。耳舌理として南北に対す。中央は心なり。四方は身なり。身四根を具す。心遍く四を縁す。故に心を以て身に対して涌没を為(な)す」云云。夫(それ)十方は依報なり、衆生は正報なり。依報は影のごとし、正報は体のごとし。身なくば影なし、正報なくば依報なし。又正報をば依報をも(以)て此(これ)をつくる。眼根をば東方をもってこれをつくる。舌は南方、鼻は西方、耳は北方、身は四方、心は中央等、これをもってし(知)んぬべし。かるがゆへに衆生の五根やぶれんとせば、四方中央をどろう(駭動)べし。されば国土やぶれんとするしるし(兆)には、まづ山くづ(崩)れ、草木か(枯)れ、江河つ(竭)くるしるしあり。人の眼耳等驚そう(躁)すれば天変あり。人の心をうご(動)かせば地動す。抑(そもそも)何(いず)れの経々にか六種動これなき。一切経を仏とかせ給ひしにみなこれあり。しかれども、仏、法華経をとかせ給はんとて六種震動ありしかば、衆もことにをどろき、弥勒菩薩(みろくぼさつ)も疑ひ、文殊師利菩薩(もんじゅしりぼさつ)もこたへしは、諸経よりも瑞も大いに久しくありしかば、疑ひも大いに決しがたかりしなり。故に妙楽の云はく「何れの大乗経にか集衆・放光・雨花・動地あらざらん。但し大疑を生ずること無し」等云云。此の釈の心はいかなる経々にも序は候へども、此ほど大なるはな(無)しとなり。されば天台大師の云はく「世人以(おも)えらく、蜘蛛(ちちゅう)掛かれば則ち喜び来たり、■(=幵-干+鳥)鵲(かんじゃく)鳴けば則ち行人至ると。小すら尚(なお)徴(しるし)有り、大焉(なん)ぞ瑞無からん。近きを以て遠きを表す」等云云。
夫(それ)一代四十余年が間なかりし大瑞を現じて、法華経の迹門をとかせ給ひぬ。其の上本門と申すは又爾前の経々の瑞に迹門を対するよりも大いなる大瑞なり。大宝塔の地よりをどりいでし、地涌千界(じゆせんがい)大地よりならび出(い)でし大震動は、大風の大海を吹けば、大山のごとくなる大波の、あし(蘆)のは(葉)のごとくなる小船のを(追)ひほ(帆)につくがごとくなりしなり。されば序品の瑞をば弥勒は文殊に問ひ、涌出品(ゆじゅっぽん)の大瑞をば慈氏(じし)は仏に問ひたてまつる。これを妙楽釈して云はく「迹事(しゃくじ)は浅近(せんごん)、文殊に寄すべし。本地は裁(ことわ)り難し故に唯仏に託す」云云。迹門のことは仏説き給はざりしかども文殊ほゞこれをしれり。本門の事は妙徳すこしもはからず。此の大瑞は在世の事にて候。仏、神力品にいた(至)て十神力を現ず。此は又さきの二瑞にはに(似)るべくもなき神力なり。序品の放光は東方万八千土、神力品の大放光は十方世界。序品の地動は但(ただ)三千界、神力品の大地動は諸仏の世界、地皆六種に震動す。此の瑞も又々かくのごとし。此の神力品の大瑞は仏の滅後正像二千年すぎて末法に入って、法華経の肝要のひろまらせ給ふべき大瑞なり。経文に云はく「仏滅度の後に能(よ)く是(こ)の経を持つを以ての故に、諸仏皆歓喜して無量の神力を現ず」等云云。又云はく「悪世末法の時」等云云。
(平成新編0918~0920・御書全集1140~1141・正宗聖典ーーーー・昭和新定[2]1367~1369・昭和定本[1]0872~0874)
[建治01(1275)年"文永12(1275)年02月"(佐後)]
[真跡・身延曾存]
[※sasameyuki※]