此等の経文を法華経の已今当、六難九易に相対すれば、月に星をならべ、九山に須弥(しゅみ)を合はせたるににたり。しかれども華厳宗の澄観、法相・三論・真言等の慈恩・嘉祥(かじょう)・弘法等の仏眼のごとくなる人、猶(なお)此の文にまどへり。何(いか)に況(いわ)んや、盲眼のごとくなる当世の学者等、勝劣を弁(わきま)ふべしや。黒白のごとくあきらかに、須弥(しゅみ)、芥子(けし)のごとくなる勝劣なをまどへり。いはんや虚空(こくう)のごとくなる理に迷はざるべしや。教の浅深をしらざれば理の浅深弁ふものなし。巻をへだて文前後すれば、教門の色弁へがたければ、文を出(い)だして愚者を扶(たす)けんとをもう。王に小王・大王、一切に少分・全分、五乳に全喩(ゆ)・分喩(ゆ)を弁ふべし。六波羅蜜経は有情の成仏あって無性の成仏なし。何に況んや久遠実成をあかさず、猶(なお)涅槃経の五味にをよばず、何に況んや法華経の迹門本門にたいすべしや。而(しか)るに日本の弘法大師、此の経文にまどひ給ひて、法華経を第四の熟蘇味(じゅくそみ)に入れ給えり。第五の総持門の醍醐味(だいごみ)すら涅槃経に及ばず、いかにし給ひけるやらん。而るを「震旦(しんだん)の人師諍って醍醐を盗む」と、天台等を盗人とかき給へり。「惜しいかな古賢醍醐を嘗(な)めず」等と自歎せられたり。
(平成新編0561~0562・御書全集0222・正宗聖典0120~0121・昭和新定[1]0811~0812・昭和定本[1]0588)
[文永09(1272)年02月(佐後)]
[真跡・身延曾存]
[※sasameyuki※]