『諸経と法華経と難易の事(諸經與法華經難易事)』(佐後)[真跡・古写本] | 細雪の物置小屋

細雪の物置小屋

御宗祖御開山遺文DBを中心に投稿します。
[参考]『日蓮大聖人の「御書」をよむ 上 法門編』著者・小林正博
発行所・株式会社第三文明社
『日蓮大聖人の「御書」をよむ 下 御消息編』著者・河合 一
発行所・株式会社第三文明社

 問うて云はく、法華経の第四法師品(ほっしほん)に云はく「難信難解(なんしんなんげ)」云云。いかなる事ぞや。答へて云はく、此の経は仏説き給ひて後、二千余年にまかりなり候。月氏(がっし)に一千二百余年、漢土(かんど)に二百余年を経て後、日本国に渡りてすでに七百余年なり。仏滅後に此の法華経の此の句を読みたる人但(ただ)三人なり。所謂(いわゆる)月氏には竜樹菩薩(りゅうじゅぼさつ)。大論(だいろん)に云はく「譬(たと)へば大薬師の能(よ)く毒を以て薬と為すが如し」等云云。此(これ)は竜樹菩薩の難信難解の四字を読み給ひしなり。漢土には天台智者大師と申せし人読んで云はく「已今当(いこんとう)の説最も為(こ)れ難信難解」云云。日本国には伝教大師読んで云はく「已説の四時の経、今説の無量義経(むりょうぎきょう)、当説の涅槃(ねはん)経は易信易解(いしんいげ)なり、随他意(ずいたい)の故に。此の法華経は最も為れ難信難解なり、随自意の故に」等云云。
 問うて云はく、其の意如何(いかん)。答へて云はく、易信易解は随他意の故なり。難信難解は随自意の故なり云云。弘法大師並びに日本国東寺(とうじ)の門人をも(思)わく、法華経は顕教(けんぎょう)の内の難信難解にて、密教に相対すれば易信易解なり云云。慈覚(じかく)・智証(ちしょう)並びに門家の思ふやう、法華経と大日経は倶(とも)に難信難解なり。但し大日経と法華経と相対せば法華経は難信難解、大日経は最も為れ難信難解なり云云。此の二義は日本一同なり。日蓮読んで云はく、外道の経は易信易解、小乗経は難信難解。小乗経は易信易解、大日経等は難信難解。大日経等は易信易解、般若経は難信難解なり。般若と華厳と、華厳と涅槃と、涅槃と法華と、迹門と本門と、重々の難易あり。
 問うて云はく、此の義を知りて何の詮か有る。答へて云はく、生死の長夜を照す大灯、元品(がんぽん)の無明(むみょう)を切る利剣(りけん)は此の法門には過ぎざるか。随他意とは、真言宗・華厳宗等は随他意・易信易解なり。仏、九界(くかい)の衆生の意楽(いぎょう)に随(したが)って説く所の経々を随他意という。譬(たと)へば賢父(けんぷ)が愚子(ぐし)に随ふが如し。仏、仏界に随って説く所の経を随自意という。譬へば聖父(せいふ)が愚子を随へたるが如し。日蓮此の義に付いて大日経・華厳経・涅槃経等を勘(かんが)へ見候に、皆随他意の経々なり。
 問うて云はく、其の随他意の証拠如何(いかん)。答へて云はく、勝鬘(しょうまん)経に云はく「非法を聞くこと無き衆生には人天(にんでん)の善根を以て之を成熟(じょうじゅく)す。声聞(しょうもん)を求むる者には声聞乗を授け、縁覚(えんがく)を求むる者には縁覚乗を授け、大乗を求むる者には授くるに大乗を以てす」云云。易信易解の心是(これ)なり。華厳・大日・般若・涅槃等又是(か)くの如し。「爾(そ)の時に世尊、薬王菩薩に因(よ)せて八万の大士に告げたまはく、薬王、汝(なんじ)是(こ)の大衆の中の無量の諸天・竜王・夜叉(やしゃ)・乾闥婆(けんだつば)・阿修羅(あしゅら)・迦樓羅(かるら)・緊那羅(きんなら)・摩■(=眼-艮+侯)羅伽(まごらか)・人と非人と及び比丘(びく)・比丘尼(びくに)・優婆塞(うばそく)・優婆夷(うばい)の声聞を求むる者、辟支仏(びゃくしぶつ)を求むる者、仏道を求むる者を見るや。是(か)くの如き等類(たぐい)咸(ことごと)く仏前に於て妙法華経の一偈(いちげ)一句を聞いて、一念も随喜(ずいき)する者には我皆記(き)を与へ授く、当(まさ)に阿○(=文章の中略)菩提(ぼだい)を得(う)べし」文。諸経の如くんば、人には五戒、天には十善(じゅうぜん)、梵(ぼん)は慈悲(じひ)喜捨(きしゃ)、魔王には一無遮(むしゃ)、比丘には二百五十、比丘尼には五百戒、声聞には四諦(したい)、縁覚には十二因縁、菩薩には六度なり。譬へば水の器(うつわ)の方円(ほうえん)に随ひ象の敵に随って力を出すがごとし。法華経は爾(しか)らず。八部・四衆(ししゅ)皆一同に法華経を演説す。譬へば定木(じょうぎ)の曲がりを削り、師子王の剛弱を嫌はずして大力を出(い)だすがごとし。此の明鏡を以て一切経を見聞するに、大日の三部・浄土の三部等隠れ無し。
 而(しか)るをいかにやしけん、弘法・慈覚・智証の御義を本としける程に、此の義すでに日本国に隠没(おんもつ)して四百余年なり。珠(たま)をもって石にかへ、栴檀(せんだん)を凡木(ぼんぼく)にうれり。仏法やうやく顛倒(てんどう)しければ世間も又濁乱(じょくらん)せり。仏法は体(たい)のごとし、世間はかげのごとし。体曲がれば影なゝめなり。幸ひなるは我が一門、仏意(ぶっち)に随って自然に薩般若海(さばにゃかい)に流入す。苦しきは世間の学者、随他意を信じて苦海に沈まん。委細の旨又々申すべく候。恐々謹言。
(平成新編1467~11469・御書全集0991~0992・正宗聖典ーーーー・昭和新定[3]2105~2107・昭和定本[2]1750~1752)
[弘安03(1280)年05月26日(佐後)]
[真跡・中山法華経寺(100%現存)、古写本・信伝筆"日澄筆" 北山本門寺]
[※sasameyuki※]