『聖愚問答抄 上』(佐前) | 細雪の物置小屋

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[参考]『日蓮大聖人の「御書」をよむ 上 法門編』著者・小林正博
発行所・株式会社第三文明社
『日蓮大聖人の「御書」をよむ 下 御消息編』著者・河合 一
発行所・株式会社第三文明社

 夫(それ)生を受けしより死を免れざる理(ことわり)は、賢き御門(みかど)より卑(いや)しき民に至るまで、人ごとに是(これ)を知るといへども、実に是を大事とし是を歎く者、千万人に一人も有りがたし。無常の現起するを見ては、疎(うと)きをば恐れ親しきをば歎くといへども、先立つははかなく、留まるはかしこきやうに思ひて、昨日は彼のわざ今日は此(こ)の事とて、徒(いたず)らに世間の五欲にほだされて、白駒のかげ過ぎやすく、羊の歩み近づく事をしらずして、空しく衣食の獄につながれ、徒らに名利(みょうり)の穴にを(堕)ち、三途の旧里に帰り、六道のちまたに輪回(りんね)せん事、心有らん人誰か歎かざらん、誰か悲しまざらん。嗚呼(ああ)老少不定は娑婆(しゃば)の習ひ、会者定離(えしゃじょうり)は浮き世のことはりなれば、始めて驚くべきにあらねども、正嘉の初め世を早うせし人のありさまを見るに、或は幼き子をふりすて、或は老いたる親を留めをき、いまだ壮年の齢(よわい)にて黄泉(よみ)の旅に趣く心の中、さこそ悲しかるらめ。行くもかなしみ留まるもかなしむ。彼の楚王(そおう)が神女に伴ひし情を一片の朝の雲に残し、劉(りゅう)氏が仙客に値(あ)ひし思ひを七世の後胤(こういん)に慰(なぐさ)む、予が如き者、底(なに)に縁(よ)って愁(うれ)ひを休めん。かゝる山左(やまがつ)のいやしき心なれば身には思ひのなかれかしと云ひけん人の古事(ふるごと)さへ思ひ出(い)でられて、末の代のわすれがたみにもとて難波(なにわ)のもしほ(藻塩)草をかきあつめ、水くき(茎)のあとを形の如くしる(記)しをくなり。
 悲しいかな痛ましいかな、我等無始より已来(このかた)、無明(むみょう)の酒に酔ひて六道四生に輪回(りんね)して、或時は焦熱(しょうねつ)・大焦熱の炎にむせび、或時は紅蓮(ぐれん)・大紅蓮の氷にとぢられ、或時は餓鬼飢渇(けかち)の悲しみに値(あ)ひて、五百生の間飲食(おんじき)の名をも聞かず。或時は畜生残害の苦しみをうけて、小さきは大きなるにのまれ、短きは長きにまかる。是を残害の苦と云ふ。或時は修羅闘諍(とうじょう)の苦をうけ、或時は人間に生まれて八苦をうく。生・老・病・死・愛別離苦(あいべつりく)・怨憎会苦(おんぞうえく)・求不得苦(ぐふとっく)・五盛陰苦(ごじょうおんく)等なり。或時は天上に生まれて五衰をうく。此(か)くの如く三界の間を車輪のごとく回り、父子の中にも親の親たる子の子たる事をさとらず、夫婦の会(あ)ひ遇(あ)へるも会ひ遇ひたる事をしらず、迷へる事は羊目(ようもく)に等しく、暗き事は狼眼(ろうげん)に同じ。我を生みたる母の由来をもしらず、生を受けたる我が身も死の終はりをしらず。嗚呼(ああ)受け難き人界の生をうけ、値(あ)ひ難き如来の聖教に値ひ奉れり、一眼の亀の浮木(ふもく)にあへるがごとし。今度若し生死のきづなをきらず、三界の籠樊(ろうはん)を出(い)でざらん事かなしかるべし、かなしかるべし。
(平成新編0381~0382・御書全集0474~0475・正宗聖典----・昭和新定[1]0579~0581・昭和定本[1]0350~0352)
["文永05(1268)年""文永02(1265)年"(佐前)]
[真跡、古写本・無]
[※sasameyuki※]