『上野殿御返事(竜門御書)』(佐後)[真跡・古写本] | 細雪の物置小屋

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[参考]『日蓮大聖人の「御書」をよむ 上 法門編』著者・小林正博
発行所・株式会社第三文明社
『日蓮大聖人の「御書」をよむ 下 御消息編』著者・河合 一
発行所・株式会社第三文明社

 唐土に竜門と申すたき(滝)あり。たか(高)き事十丈、水の下ることがっぴゃう(強兵)がや(矢)をい(射)を(落)とすよりもはや(早)し。このたきにをゝ(多)くのふな(鮒)あつ(集)まりてのぼ(登)らむと申す。ふなと申すいを(魚)ののぼりぬれば、りう(竜)となり候。百に一つ、千に一つ、万に一つ、十年廿年に一つものぼる事なし。或ははや(急)きせ(瀬)にかへり、或ははし(鷲)・たか(鷹)・とび(鴟)・ふくろう(梟)にくらわれ、或は十丁のたきの左右に漁人(いおとるもの)どもつら(列)なりゐて、或はあみ(網)をかけ、或はく(汲)みとり、或はい(射)てと(取)るものもあり。いを(魚)のりう(竜)となる事かくのごとし。
 日本国の武士の中に源平二家と申して、王の門守(かどまも)りの犬二疋(にひき)候。二家ともに王を守りたてまつる事、やまがつ(山人)が八月十五夜のみね(峰)よりい(出)づるをあい(愛)するがごとし。てんじゃう(殿上)のなんにょ(男女)のあそぶをみては、月と星とのひかり(ひかり)をあ(合)わせたるを、木の上にてさる(猿)のあい(愛)するがごとし。かゝる身にてはあれども、いかんがして我等てんじゃう(殿上)のまじ(交)わりをなさんとねがいし程に、平氏の中に貞盛(さだもり)と申せし者、将門(まさかど)を打ちてありしかども、昇でん(殿)をゆる(許)されず、其の子正盛(まさもり)又かなわず。其の子忠盛(ただもり)が時、始めて昇でんをゆるさる。其の後清盛(きよもり)・重盛(しげもり)等、てんじゃう(殿上)にあそぶのみならず、月をう(生)み、日をいだ(抱)くみ(身)となりにき。仏になるみち(道)、これにをと(劣)るべからず。いを(魚)の竜門をのぼり、地下(じげ)の者のてんじゃう(殿上)へまい(参)るがごとし。
 身子(しんし)と申せし人は、仏にならむとて六十劫が間菩薩の行をみ(満)てしかども、こら(堪)へかねて二乗の道に入りにき。大通(だいつう)結縁(けちえん)の者は三千塵点劫(じんでんごう)、久遠(くおん)下種(げしゅ)の人の五百塵点劫生死にしづ(沈)みし、此等は法華経を行ぜし程に、第六天の魔王、国主等の身に入りて、とかうわづら(煩)わせしかばたい(退)してす(捨)てしゆへに、そこばく(若干)の劫に六道にはめぐ(巡)りしぞかし。
 かれ(彼)は人の上とこそみしかども、今は我等がみ(身)にかゝれり。願はくは我が弟子等、大願ををこせ。去年(こぞ)去々年(おととし)のやくびゃう(疫病)に死にし人々のかずにも入らず、又当時蒙古(もうこ)のせ(攻)めにまぬ(免)かるべしともみへず。とにかくに死は一定(いちじょう)なり。其の時のなげ(歎)きはたうじ(当時)のごとし。をなじくはかり(仮)にも法華経のゆへに命をすてよ。ちゆ(露)を大海にあつらへ、ちり(塵)を大地にうづ(埋)むとをもへ。法華経の第三に云はく「願はくは此の功徳を以て普(あまね)く一切に及ぼし、我等と衆生と皆共に仏道を成ぜん」云云。恐々謹言。

  此(これ)はあつわら(熱原)の事のありがたさに申す御返事なり。
(平成新編1427~1428・御書全集1560~1561・正宗聖典----・昭和新定[3]2049~2051・昭和定本[2]1707~1709)
[弘安02(1279)年11月06日(佐後)]
[真跡・富士大石寺(100%現存)、古写本・日興筆 富士大石寺]
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