さて正善の師と申すは、釈尊の金言の如く、諸経は方便、法華は真実と正直に読むを申すべく候なり。華厳の七十七の入法界品之(これ)を見るべし云云。法華経に云はく「善知識は是(これ)大因縁なり。所謂(いわゆる)化導して仏を見たてまつり阿耨菩提(あのくぼだい)を発(お)こすことを得せしむ」等云云。仏説の如きは、正直に四味・三教・小乗・権大乗の方便の諸経、念仏・真言・禅・律等の諸宗並びに所依の経を捨て、但(ただ)唯以一大事因縁の妙法蓮華経を説く師を正師・善師とは申すべきなり。然(しか)るに日蓮末法の初めの五百年に生を日域(にちいき)に受け、如来の記文の如く三類の強敵(ごうてき)を蒙(こうむ)り、種々の災難に相値(あ)ひて、身命を惜しまずして南無妙法蓮華経と唱へ候は正師か邪師か。能(よ)く能く御思惟(しゆい)之(これ)有るべく候。上に挙ぐる所の諸宗の人々は我こそ法華経の意を得て法華経を修行する者よと名乗り候へども、予が如く弘長には伊豆国に流され、文永には佐渡島に流され、或は竜口(たつのくち)の頸(くび)の座等、此の外(ほか)種々の難は数を知らず。経文の如くならば予は正師なり善師なり。諸宗の学者は悉(ことごと)く邪師なり悪師なりと覚(おぼ)し食(め)し候へ。此の外善悪二師を分別する経論の文等是(これ)広く候へども、兼ねて御存知の上は申すに及ばず候。
只今の御文に自今以後は日比(ひごろ)の邪師を捨て偏(ひとえ)に正師と憑(たの)むとの仰せは不審に覚(おぼ)へ候。我等が本師釈迦如来法華経を説かんが為に出世ましませしには、他方の仏菩薩等来臨(らいりん)影響(ようごう)して釈尊の行化を助け給ふ。されば釈迦・多宝・十方の諸仏等の御使ひとして来たって化を日域に示し給ふにもやあるらん。経に云はく「我於余国遣化人(がおよこくけんげにん)、為其集聴法衆(いごしゅうちょうほうしゅう)、亦遣化(やくけんげ)随順不逆(ずいじゅんふぎゃく)」と。此の経文に比丘と申すは貴辺の事なり。其の故は聞法信受、随順不逆、眼前なり。争(いか)でか之を疑ひ奉るべきや。設(たと)ひ又「在々諸仏土、常与師倶生」の人なりとも、三周の声聞の如く下種の後に退大取小して五道六道に沈輪(ちんりん)し給ひしが、成仏の期来至して順次に得脱せしむべきゆへにや。念仏・真言等の邪法・邪師を捨てゝ日蓮が弟子となり給ふらん、有り難き事なり。何(いず)れの辺に付いても、与が如く諸宗の謗法を責め彼等をして捨邪帰正せしめ給ふて、順次に三仏座を並べ常寂光土に詣(まい)りて、釈迦・多宝の御宝前に於て、我等無始より已来(このかた)師弟の契約有りけるか、無かりけるか。又釈尊の御使ひとして来たりて化し給へるか、さぞと仰せを蒙(こうむ)りてこそ我が心にも知られ候はんずれ。何様にもはげませ給へ、はげませ給へ。
何となくとも貴辺に去(い)ぬる二月の比(ころ)より大事の法門を教へ奉りぬ。結句は卯月(うづき)八日夜半寅(とら)の時に妙法の本円戒を以て受職潅頂(じゅしょくかんじょう)せしめ奉る者なり。此の受職を得るの人争(いか)でか現在なりとも妙覚の仏を成ぜざらん。若し今生妙覚ならば後生豈(あに)等覚等の因分ならんや。実に無始曠劫(こうごう)の契約、常与師倶生の理ならば、日蓮今度成仏せんに貴辺豈(あに)相離れて悪趣に堕在したまふべきや。如来の記文・仏意の辺に於ては世出世に就きて更に妄語無し。然(しか)るに法華経には「我が滅度の後に於て応(まさ)に斯(こ)の経を受持すべし。是(こ)の人仏道に於て決定(けつじょう)して疑ひ有ること無けん」と。或は「速(すみ)やかに為(こ)れ疾(と)く無上仏道を得たり」等云云。此の記文虚(むな)しくして我等が成仏今度虚言ならば、諸仏の御舌もきれ、多宝の塔も破れ落ち、二仏並座(びょうざ)は無間地獄の熱鉄の床となり、方・実・寂の三土は地・餓・畜の三道と変じ候べし。争(いか)でかさる事候べきや。あらたのもしやたのもしや。
是(か)くの如く思ひつゞけ候へば、我等は流人なれども身心共にうれしく候なり。大事の法門をば昼夜に沙汰し、成仏の理をば時々刻々にあぢはう。是くの如く過ぎ行き候へば、年月を送れども久しからず、過(す)ぐる時刻も程あらず。例せば釈迦・多宝の二仏塔中に並座(びょうざ)して、法華の妙理をうなづき合ひ給ひし時、五十小劫仏の神力の故に諸の大衆をして半日の如しと謂(おも)はしむと云ひしが如くなり。劫初より以来、父母・主君等の御勘気を蒙(こうむ)り遠国の島に流罪せらるゝの人、我等が如く悦び身に余りたる者よもあらじ。されば我等が居住して一乗を修行せんの処は何(いず)れの処にても候へ、常寂光の都たるべし。我等が弟子檀那とならん人は一歩を行かずして天竺の霊山を見、本有(ほんぬ)の寂光土へ昼夜に往復し給ふ事、うれしとも申す計り無し、申す計り無し。
余りにうれしく候へば契約一つ申し候はん。貴辺の御勘気疾(と)く許させ給ひて都へ御上り候はゞ、日蓮も鎌倉殿はゆるさじとの給ひ候とも諸天等に申して鎌倉に帰り、京都へ音信(おとずれ)申すべく候。又日蓮先立ちてゆ(許)り候ひて鎌倉へ帰り候はゞ、貴辺をも天に申して古京(こきょう)へ帰し奉るべく候。恐々謹言。
夕さりは相構へ相構へて御入り候へ。得受職人(とくじゅしょくにん)功徳法門委(くわ)しく御申し候はん。
(平成新編0586~0588・御書全集1340、1341~1343・正宗聖典----・昭和新定[1]0845、0847~0850・昭和定本[1]0620、0622~0625)
[文永09(1272)年04月13日(佐後)]
[真跡、古写本・無]
[※sasameyuki※]