第三に正しく末代の凡夫の為の善知識を明かさば、問うて云はく、善財童子(ぜんざいどうじ)は五十余の知識に値(あ)ひき。其の中に普賢(ふげん)・文殊(もんじゅ)・観音(かんのん)・弥勒(みろく)等有り。常啼(じょうたい)・班足(はんぞく)・妙荘厳(みょうしょうごん)・阿闍世(あじゃせ)等は曇無竭(どんむかつ)・普明(ふみょう)・耆婆(ぎば)・二子(にし)・夫人(ぶにん)に値(あ)ひ奉りて生死(しょうじ)を離れたり。此等は皆大聖なり。仏世を去りての後是(か)くの如きの師を得ること難しと為(な)す。滅後に於て亦竜樹(りゅうじゅ)・天親(てんじん)も去りぬ。南岳(なんがく)・天台(てんだい)にも値(あ)はず。如何ぞ生死を離るべきや。答へて曰く、末代に於て真実の善知識有り。所謂(いわゆる)法華(ほっけ)・涅槃(ねはん)是(これ)なり。問うて云はく、人を以て善知識と為すは常の習ひなり。法を以て知識と為すの証有りや。答へて云はく、人を以て知識と為すは常の習ひなり。然(しか)りと雖(いえど)も末代に於ては真の知識無ければ法を以て知識と為すに多くの証有り。摩訶止観(まかしかん)に云はく「或は知識に従ひ、或は経巻に従ひて、上に説く所の一実の菩提(ぼだい)を聞く」已上。此の文の意は経巻を以て善知識と為すなり。法華経に云はく「若し法華経を閻浮提(えんぶだい)に行じ受持すること有らん者は応(まさ)に此の念を作(な)すべし。皆是(これ)普賢(ふげん)威神(いじん)の力なり」已上。此の文の意は末代の凡夫法華経を信ずるは普賢の善知識の力なり。又云はく「若し是(こ)の法華経を受持し読誦(どくじゅ)し正憶念(しょうおくねん)し修習し書写すること有らん者は、当(まさ)に知るべし、是(こ)の人は則(すなわち)ち釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)を見るなり。仏口(ぶっく)より此の経典を聞くが如し。当に知るべし、是の人は釈迦牟尼仏を供養するなり」已上。此の文を見るに法華経は釈迦牟尼仏なり。法華経を信ぜざる人の前には釈迦牟尼仏入滅を取り、此の経を信ずる者の前には滅後たりと雖(いえど)も仏の在世なり。又云はく「若し我成仏して滅度の後、十方の国土に於て法華経を説く所有らば、我が塔廟(とうみょう)是(こ)の経を聴かんが為の故に其の前に涌現(ゆげん)して為に証明(しょうみょう)を作(な)さん」已上。此の文の意は我等法華の名号(みょうごう)を唱へば多宝如来(たほうにょらい)本願の故に必ず来たりたまふ。又云はく「諸仏の十方世界に在(あ)って法を説くを尽(ことごと)く還(かえ)して一処に集めたまふ」已上。釈迦・多宝・十方の諸仏・普賢菩薩等は我等が善知識なり。若し此の義に依(よ)らば我等も亦(また)宿善、善財(ぜんざい)・常啼(じょうたい)・班足(はんぞく)等にも勝(すぐ)れたり。彼は権経の知識に値(あ)ひ、我等は実経の知識に値へばなり。彼は権経の菩薩に値ひ、我等は実経の仏菩薩に値ひ奉ればなり。涅槃経に云はく「法に依(よ)って人に依らざれ、智に依って識に依らざれ」已上。依法(えほう)と云ふは法華・涅槃の常住の法なり。不依人(ふえにん)とは法華・涅槃に依らざる人なり。設(たと)ひ仏菩薩たりと雖も法華・涅槃に依らざる仏菩薩は善知識に非ず。況(いわ)んや法華・涅槃に依らざる論師・訳者・人師(にんし)に於てをや。依智(えち)とは仏に依る。不依識(ふえしき)とは等覚已下なり。今の世の世間の道俗源空(げんくう)の謗法の失(とが)を隠さんが為に徳を天下に挙げて権化(ごんげ)なりと称す。依用(えゆう)すべからず。外道は五通を得て能(よ)く山を傾け海を竭(つ)くすとも神通無き阿含経の凡夫に及ばず。羅漢(らかん)を得(え)六通を現ずる二乗は華厳・方等・般若の凡夫に及ばず。華厳・方等・般若の等覚の菩薩も法華経の名字(みょうじ)・観行(かんぎょう)の凡夫に及ばず。設(たと)ひ神通智慧有りと雖も権教の善知識をば用(もち)ふべからず。我等常没(じょうもつ)の一闡提(いっせんだい)の凡夫法華経を信ぜんと欲するは仏性(ぶっしょう)を顕(あら)はさんが為の先表(せんぴょう)なり。故に妙楽大師の云はく「内薫(ないくん)に非ざるよりは何ぞ能(よ)く悟りを生ぜん。故に知んぬ、悟りを生ずる力は真如(しんにょ)に在(あ)り、故に冥薫(みょうくん)を以て外護(げご)と為(な)すなり」已上。法華経より外(ほか)の四十余年の諸経には十界互具無し。十界互具を説かざれば内心の仏界を知らず。内心の仏界を知らざれば外(ほか)の諸仏も顕はれず。故に四十余年の権行(ごんぎょう)の者は仏を見ず。設(たと)ひ仏を見ると雖(いえど)も他仏を見るなり。二乗は自仏を見ざるが故に成仏無し。爾前(にぜん)の菩薩も亦(また)自身の十界互具を見ざれば二乗界の成仏を見ず。故に衆生無辺誓願度(しゅじょうむへんせいがんど)の願も満足せず。故に菩薩も仏を見ず、凡夫も亦(また)十界互具を知らざるが故に自身の仏界顕はれず。故に阿弥陀如来の来迎(らいごう)も無く、諸仏如来の加護(かご)も無し。譬(たと)へば盲人の自身の影を見ざるが如し。今法華経に至りて九界(くかい)の仏界を開くが故に、四十余年の菩薩・二乗・六凡(ろくぼん)始めて自身の仏界を見る。此の時此の人の前に始めて仏・菩薩・二乗を立つ。此の時に二乗・菩薩始めて成仏し凡夫始めて往生す。是(こ)の故に在世滅後の一切衆生の誠の善知識は法華経是(これ)なり。常途(じょうず)の天台宗の学者は爾前に於て当分の得道を許せども、自義に於ては猶(なお)当分の得道を許さず。然(しか)りと雖も此の書に於ては其の義を尽さず、略して之(これ)を記す。追って之を記すべし。
(平成新編0149~0151・御書全集0066~0068・正宗聖典ーーーー・昭和新定[1]0267~0269・昭和定本[1]0123~0125)
[正元01(1259)年(佐前)]
[真跡・身延曾存]
[※sasameyuki※]