但し疑ひ念(おも)ふことあり。目連尊者(もくれんそんじゃ)は扶(たす)けんとをも(思)いしかども母の青提女(しょうだいにょ)は餓鬼道(がきどう)に堕(お)ちぬ。大覚世尊の御子(みこ)なれども善星比丘(ぜんしょうびく)は阿鼻地獄(あびじごく)へ堕ちぬ。これは力のまゝすく(救)はんとをぼ(思)せども自業自得果のへん(辺)はすく(救)ひがたし。故道善房はいたう弟子なれば日蓮をばにくしとはをぼ(思)せざりけるらめども、きわめて臆病なりし上、清澄をはな(離)れじと執せし人なり。地頭景信(かげのぶ)がをそ(恐)ろしといゐ、提婆(だいば)・瞿伽利(くがり)にことならぬ円智(えんち)・実城(じつじょう)が上と下とに居てをどせしをあなが(強)ちにをそれて、いとを(愛)しとをもうとし(年)ごろの弟子等をだにもすてられし人なれば、後生はいかんがと疑う。但(ただ)一つの冥加(みょうが)には景信と円智・実城とがさきにゆ(往)きしこそ一つのたす(助)かりとはをも(思)へども、彼等は法華経の十羅刹(じゅうらせつ)のせ(責)めをかほ(蒙)りてはやく失(う)せぬ。後にすこし信ぜられてありしは、いさか(諍)ひの後のちぎ(乳切)りぎ(木)なり、ひるのともし(灯)びなにかせん。其の上いかなる事あれども子・弟子なんどいう者は不便(ふびん)なる者ぞかし。力なき人にもあらざりしが、さど(佐渡)の国までゆきしに一度もとぶら(訪)われざりし事は、信じたるにはあらぬぞかし。
(平成新編1030~1031・御書全集0323・正宗聖典0266~0267・昭和新定[2]1533~1534・昭和定本[2]1239~1240)
[建治02(1276)年07月21日(佐後)]
[真跡・池上本門寺外五ヶ所(10%未満現存) 身延曾存、古写本・日舜筆 富士大石寺 日乾筆 京都本満寺]
[※sasameyuki※]