問うて云はく、念仏者・禅宗等を責めて、彼等にあだまれたる、いかなる利益かあるや。答へて云はく、涅槃経に云はく「若し善比丘、法を壊(やぶ)る者を見て、置いて、呵責(かしゃく)し、駈遣(くけん)し、挙処(こしょ)せずんば、当(まさ)に知るべし、是(こ)の人は仏法の中の怨(あだ)なり。若し能(よ)く駈遣し、呵責し、挙処せば、是(これ)我が弟子、真の声聞なり」等云云。涅槃の疏(しょ)に云はく「仏法を壊乱(えらん)するは、仏法の中の怨(あだ)なり。慈(じ)無くして詐(いつわ)り親しむは、是(こ)れ彼が怨なり。能(よ)く糾治(きゅうじ)せん者は、是(これ)護法の声聞、真の我が弟子なり。彼が為に悪を除くは、即ち是(これ)彼が親なり。能(よ)く呵責する者は、是我が弟子。駈遣せざらん者は、仏法の中の怨なり」等云云。
夫(それ)法華経の宝塔品を拝見するに、釈迦・多宝・十方分身の諸仏の来集はなに心ぞ「令法久住、故来至此」等云云。三仏の未来に法華経を弘めて、未来の一切の仏子にあたえんとおぼしめす御心の中をすいするに、父母の一子の大苦に値(あ)ふを見るよりも、強盛にこそみへたるを、法然いたわしとおもはで、末法には法華経の門を堅く閉ぢて、人を入れじとせき、狂児をたぼらかして宝をすてさするやうに、法華経を抛(なげす)てさせける心こそ無慚(むざん)に見へ候へ。我が父母を人の殺すに父母につげざるべしや。悪子の酔狂(すいきょう)して父母を殺すをせい(制)せざるべしや。悪人、寺塔に火を放たんに、せい(制)せざるべしや。一子の重病を灸(やいと)せざるべしや。日本の禅と念仏者とを見て、せい(制)せざる者はかくのごとし。「慈無くして詐り親しむは、即ち是彼が怨なり」等云云。日蓮は日本国の諸人に主師父母なり。一切天台宗の人は、彼等が大怨敵なり。「彼が為に悪を除くは、即ち是彼が親」等云云。無道心の者、生死をはなるゝ事はなきなり。教主釈尊の一切の外道に大悪人と罵詈(めり)せられさせ給ひ、天台大師の南北並びに得一(とくいつ)に「三寸の舌もて五尺の身をたつ」と、伝教大師の南京の諸人に「最澄未だ唐都を見ず」等といわれさせ給ひし、皆法華経のゆへなればはぢならず。愚人にほめられたるは第一のはぢなり。日蓮が御勘気をかほれば、天台・真言の法師等悦ばしくやをもうらん。かつはむざんなり。かつはきくわい(奇怪)なり。夫(それ)釈尊は娑婆(しゃば)に入り、羅什(らじゅう)は秦(しん)に入り、伝教は尸那(しな)に入り、提婆(だいば)・師子(しし)は身をすつ。薬王は臂(ひじ)をやく。上宮(じょうぐう)は手の皮をはぐ。釈迦菩薩は肉をうる。楽法(ぎょうぼう)は骨を筆とす。天台の云はく「適時而已(ちゃくじにい)」等云云。仏法は時によるべし。日蓮が流罪(るざい)は今生(こんじょう)の小苦なれば、なげかしからず。後生(ごしょう)には大楽をうくべければ、大いに悦ばし。
平成新編0577~0578・御書全集0236~0237・正宗聖典0139~0141・昭和新定[1]0832~0833・昭和定本[1]0607~0609)
[文永09(1272)年02月(佐後)]
[真跡・身延曾存]
[※sasameyuki※]