次に念仏は是(これ)浄土宗所用の義なり。此(これ)又権教の中の権教なり。譬(たと)へば夢の中の夢の如し。有名無実にして其の実無きなり。一切衆生願ひて所詮(しょせん)なし。然(しか)れば云ふ所の仏も有為無常の阿弥陀仏なり。何(なん)ぞ常住不滅の道理にしかんや。されば本朝の根本大師の御釈に云はく「有為の報仏は夢中の権果(ごんか)、無作(むさ)の三身(さんじん)は覚前の実仏」と釈して、阿弥陀仏等の有為無常の仏をば大いにいましめ、捨てをかれ候なり。既に憑(たの)む所の阿弥陀仏有名無実にして、名のみ有りて其の体なからんには、往生すべき道理をば委(くわ)しく須弥山の如く高く立て、大海の如くに深く云ふとも、何の所詮有るべきや。又経論に正しき明文ども有りと云はゞ、明文ありとも未顕真実の文なり。浄土の三部経に限らず、華厳経等より初めて何(いず)れの経教論釈にか成仏の明文無からんや。然(しか)れども権教の明文なる時は、汝等が所執の拙(つたな)きにてこそあれ、経論に無き僻事(ひがごと)なり。何れも法門の道理を宣(の)べ厳(かざ)り、依経を立てたりとも夢中の権果(ごんか)にて無用の義に成るべきなり。返す返す。
(平成新編0037~0038・御書全集0382・正宗聖典ーーーー・昭和新定[1]0116~0117・昭和定本[1]0033)
[建長07(1255)年(佐前)]
[古写本・日代筆 西山本門寺]
[※sasameyuki※]