『種々御振舞御書』(佐後)[曾存] | 細雪の物置小屋

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[参考]『日蓮大聖人の「御書」をよむ 上 法門編』著者・小林正博
発行所・株式会社第三文明社
『日蓮大聖人の「御書」をよむ 下 御消息編』著者・河合 一
発行所・株式会社第三文明社

 去(い)ぬる文永八年太歳辛未九月十二日御勘気をかほる。其の時の御勘気のやうも常ならず法にすぎてみゆ。了行(りょうこう)が謀反(むほん)ををこし、大夫(たいふ)律師が世をみださんとせしを、めしとられしにもこへたり。平左衛門尉大将として数百人の兵者(つわもの)にどうまろ(胴丸)きせてゑぼうし(烏帽子)かけして、眼をいからし声をあら(荒)うす。大体事の心を案ずるに、太政(だいじょう)入道の世をとりながら国をやぶらんとせしにに(似)たり、たゞ事ともみへず。日蓮これを見てをも(思)うやう、日ごろ月ごろをも(思)ひまうけたりつる事はこれなり。さいはひなるかな、法華経のために身をすてん事よ。くさ(臭)きかうべ(頭)をはなたれば、沙(いさご)に金(こがね)をかへ、石に珠(たま)をあきな(貿)へるがごとし。
 さて平左衛門尉が一の郎従(ろうじゅう)少輔房(しょうぼう)と申す者はしりよりて、日蓮が懐中せる法華経の第五の巻を取り出(い)だして、おもて(面)を三度さいな(呵責)みて、さんざん(散々)とう(打)ちちらす。又九巻の法華経を兵者ども打ちちらして、あるいは足にふみ、あるいは身にまとひ、あるいはいたじき(板敷)たゝみ(畳)等、家の二三間にちらさぬ所もなし。日蓮大高声(だいこうしょう)を放ちて申す。あらをもしろや平左衛門尉がものにくるうを見よ。とのばら(殿原)、但今ぞ日本国の柱をたを(倒)すとよ(呼)ばはりしかば、上下万人あわてゝ見へし。日蓮こそ御勘気をかほれば、をく(臆)して見ゆべかりしに、さはなくて、これはひが(僻)ごとなりとやをもひけん。兵者どものいろ(色)こそへんじて見へしか。十日並びに十二日の間、真言宗の失(とが)、禅宗・念仏等、良観が雨ふらさぬ事、つぶさ(具)に平左衛門尉にいゐきかせてありしに、或はわっとわらひ、或はいかりなんどせし事どもはしげ(繁)ければしるさず。せん(詮)ずるところは、六月十八日より七月四日まで良観が雨のいのりして、日蓮にかゝれてふらしかね、あせ(汗)をながしなんだ(涙)のみ下して雨ふらざりし上、逆風ひまなくてありし事、三度までつかひ(使者)をつかわして、一丈のほり(堀)をこへぬもの十丈二十丈のほりを越ゆべきか。いずみしきぶ(和泉式部)いろごのみの身にして八斎戒(さいかい)にせい(制)せるうた(和歌)をよみて雨をふらし、能因法師が破戒の身としてうたをよみて天雨を下(ふ)らせしに、いかに二百五十戒の人々百千人あつまりて、七日二七日せめさせ給ふに雨の下らざる上に大風は吹き候ぞ。これをもって存ぜさせ給へ。各々の往生は叶ふまじきぞとせめられて、良観がなきし事、人々につきて讒(ざん)せし事、一々に申せしかば、平左衛門尉等かたうど(方人)しかなへずして、つ(詰)まりふ(伏)しし事どもはしげ(繁)ければか(書)ゝず。
(平成新編1057~1059・御書全集0911~0912・正宗聖典ーーーー・昭和新定[2]1574~1576・昭和定本[2]0963~0965)
[建治02(1276)年"建治01(1275)年"(佐後)]
[真跡・身延曾存]
[※sasameyuki※]