『三世諸仏総勘文教相廃立(総勘文抄)』(佐後)(秘) | 細雪の物置小屋

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[参考]『日蓮大聖人の「御書」をよむ 上 法門編』著者・小林正博
発行所・株式会社第三文明社
『日蓮大聖人の「御書」をよむ 下 御消息編』著者・河合 一
発行所・株式会社第三文明社

 是の故に心外無別法(しんげむべつほう)と云ふ。此を一切の法は皆是仏法なりと通達解了(つうだつげりょう)すと云ふなり。生と死と二つの理は生死の夢の理なり。妄想なり顛倒(てんどう)なり。本覚の寤(うつつ)を以て我が心性を糾(ただ)さば、生ずべき始めも無きが故に、死すべき終はりも無し。既に生死を離れたる心法に非ずや。劫火(ごうか)にも焼けず、水災にも朽(く)ちず、剣刀にも切られず、弓箭(きゅうせん)にも射られず。芥子(けし)の中に入るれども芥子も広からず、心法も縮まらず。虚空(こくう)の中に満(み)つれども虚空も広からず、心法も狭(せま)からず。善に背(そむ)くを悪と云ひ、悪に背くを善と云ふ。故に心の外に善無く悪無し。此の善と悪とを離るゝを無記と云ふなり。善悪無記、此の外には心無く、心の外には法無きなり。故に善悪も浄穢(じょうえ)も凡夫聖人も天地も大小も東西も南北も四維(しい)も上下も言語道断(ごんごどうだん)し心行所滅(しんぎょうしょめつ)す。心に分別して思ひ、言ひ顕(あら)はす言語なれば、心の外に分別も無し。分別も無ければ言(ことば)と云ふは心の思ひを響かして声に顕(あら)はすを云ふなり。凡夫は我が心に迷ふて知らず覚(さと)らざるなり。仏は之を悟り顕(あら)はして神通と名づくるなり。神通とは神(たましい)の一切の法に通じて碍(さわ)り無きなり。此の自在の神通は一切の有情の心にて有るなり。故に狐狸(こり)も分々に通を現ずること、皆心の神の分々の悟りなり。此の心の一法より国土世間も出来する事なり。一代聖教とは此の事を説きたるなり。此を八万四千の法蔵とは云ふなり。是(これ)皆悉(ことごと)く一人の身中の法門にて有るなり。然(しか)れば八万四千の法蔵は、我が身一人の日記文書なり。此の八万の法蔵を我が心中に孕(はら)み持ち懐(いだ)き持ちたり。我が身中の心を以て仏と法と浄土とを、我が身より外に思ひ願ひ求むるを迷ひとは云ふなり。此の心が善悪の縁に値(あ)ひて善悪の法をば造り出(い)だせるなり。華厳経(けごんきょう)に云はく「心は工(たく)みなる画師(えし)の種々の五陰(ごおん)を造るが如く、一切世間の中に法として造らざること無し。心の如く仏も亦(また)爾(しか)なり。仏の如く衆生も然(しか)なり。三界唯一心なり。心の外に別の法無し。心(こころ)仏及び衆生是(こ)の三差別(さべつ)無し」已上。無量義経に云はく「無相(むそう)不相(ふそう)の一法より無量義を出生す」已上。無相不相の一法とは一切衆生の一念の心是(これ)なり。文句(もんぐ)に釈して云はく「生滅(しょうめつ)無常(むじょう)の相無きが故に無相と云ふなり。二乗の有余(うよ)・無余(むよ)の二つの涅槃の相を離るが故に不相と云ふなり」云云。心の不思議を以て経論の詮要(せんよう)と為(す)るなり。此の心を悟り知るを名づけて如来と云ふ。之を悟り知って後は十界は我が身なり、我が心なり、我が形なり。本覚の如来は我が身心なるが故なり。之を知らざる時を名づけて無明(むみょう)と為(な)す。無明は明(あき)らかなること無しと読むなり。我が心の有り様を明らかに覚(さと)らざるなり。之を悟り知る時を名づけて法性(ほっしょう)と云ふ。故に無明と法性とは一心の異名なり。名と言(ことば)は二なりと雖(いえど)も心は只(ただ)一つ心なり。斯(こ)れに由(よ)りて無明をば断ずべからざるなり。夢の心の無明なるを断ぜば寤(うつつ)の心を失ふべきが故に。総じて円教の意は一毫(いちごう)の惑をも断ぜず。故に一切の法は皆是仏法なりと云ふなり。
(平成新編1414~1415・御書全集0563~0564・正宗聖典----・昭和新定[3]2036~2037・昭和定本[2]1692~1693)
[弘安02(1279)年10月(佐後)]
[真跡、古写本・無]
[秘・三世諸仏の勘文]
[※sasameyuki※]