浄土の三部経は、釈尊一代五時の説教の内、第三方等部の内より出でたり。此の四巻三部の経は全く釈尊の本意に非ず、三世諸仏出世の本懐(ほんがい)にも非ず、只(ただ)暫(しばら)く衆生誘引(ゆういん)の方便なり。譬へば塔をくむに足代(あししろ)をゆ(結)ふが如し。念仏は足代なり、法華は宝塔なり。法華を説き給ふまでの方便なり。法華の塔を説き給ふて後は、念仏の足代をば切り捨つべきなり。然(しか)るに法華経を説き給ふて後、念仏に執著(しゅうじゃく)するは、塔をくみ立てゝ後、足代に著(じゃく)して塔を用ひざる人の如し。豈(あに)違背(いはい)の咎(とが)無からんや。然(しか)れば法華の序分無量義経には「四十余年未だ真実を顕はさず」と説き給ふて念仏の法門を打ち破り給ふ。正宗法華経には「正直に方便を捨てゝ但(ただ)無上道を説く」と宣(の)べ給ひて念仏三昧を捨て給ふ。之に依って、阿弥陀経の対告衆(たいごうしゅ)長老舎利弗尊者、阿弥陀経を打ち捨て、法華経に帰伏(きぶく)して、華光如来(けこうにょらい)と成り畢(おわ)んぬ。四十八願付嘱の阿難尊者も浄土の三部経を抛(なげう)ちて、法華経を受持して、山海慧自在通王仏(せんかいえじざいつうおうぶつ)と成り畢んぬ。阿弥陀経の長老舎利弗は、千二百の羅漢の中に智慧第一の上首(じょうしゅ)の大声聞、閻浮提(えんぶだい)第一の大智者なり。肩を並ぶる人なし。阿難尊者は多聞第一の極聖、釈尊一代の説法を空(そら)に誦(じゅ)せし広学の智人なり。かゝる極位の大阿羅漢すら尚(なお)往生成仏の望みを遂(と)げず。仏(ほとけ)在世の祖師此(か)くの如し。祖師の跡を踏(ふ)むべくば、三部経を抛ちて法華経を信じ無上菩提を成ずべき者なり。
(平成新編0039~0040・御書全集0098・正宗聖典----・昭和新定[1]0118~0119・昭和定本[1]0035~0036)
[建長07(1255)年(佐前)]
[真跡、古写本・無]
[※sasameyuki※]